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チェルフィッチュ・岡田利規が『アクティング・クラス』で感じた「演技」の危険さ

ニック・ドルナソによるヴィジュアル・ノヴェル『アクティング・クラス』は、この講座に参加する人間が織りなす群像劇。彼女ら彼らの日常・精神・世界がかすかに、しかし根底から変容を来すさまがミステリアスに描かれる。演劇作家として、「演技」を仕事にするチェルフィッチュ岡田利規は同作をどう読んだのだろうか。

text: Toshiki Okada / edit: Sogo Hiraiwa

「演技」というヤバさ

文・岡田利規

彼女ら彼らは役者志望というわけではない。それでも、おそらくは彼女ら彼らそれぞれの直面するままならない・イケてない現実のオルタナティヴを求めてなのだろう、〈演技する〉という営みになんとなく興味を抱き、一般の人を対象にした、はじめの数回は無料で体験受講できる演技教室に参加する。

ヴィジュアル・ノヴェル『アクティング・クラス』はこの講座に参加する彼女ら彼らの織りなす群像劇。彼女ら彼らの日常・精神・世界がかすかに、しかし根底から変容を来すさまがミステリアスに描かれる。もちろんその変容は、彼女ら彼らが手を染める〈演技する〉という行為によって引き起こされるものだ。

〈演技する〉ことが彼女ら彼らに引き起こす変容は、うわべのレベルにおいてはポジティヴな側面もある。冴えない日常がいつもと違って感じられて少し気分がいい、というような。しかし〈演技する〉という営為はもっと深い部分で人間の精神のありようの、その人がそれまでにそれなりに保っていた安定状態を揺り動かし崩してしまう危険なポテンシャルを秘めた、相当にヤバいものだ。この作品はそのことを暴いてしまっている。

〈演技する〉ことがヤバいのは、原理的にそれが現実とフィクションの混同を自らに生じさせる危険に身を投じずには行い得ないものだからだ。彼女ら彼らは現実のオルタナティヴを求めて〈アクティング・クラス〉に参加したのだろうから、それはある意味、彼女ら彼らが求めていたことだと言えるかもしれないが、たかが〈演技〉がそこまでヤバい作用を持つだなんてあらかじめわかっていなかったのだとしても無理のない話だ。『アクティング・クラス』はそこにつけ込んだホラーであるとも言える。

演劇の演出の仕事をしているわたしは〈演技〉が危険物であることをもちろん知らなかったわけではない。ただ、演技の行われる現場に立ち会うのはわたしにとってごくありふれたことだし、わたしが一緒に仕事するのはほとんど常にプロの役者とだからというのもあり、その危険を日々強く意識しながら仕事しているかといえば、決してそうとは言えない。そんなわたしにこの『アクティング・クラス』の読書体験(それも芝居のリハーサルにいそしむ日々を送るさなかでのことだった)は、ジワジワとだったとも言えるしガツンとだったとも言える仕方で、自分はこんなにもヤバいものを日々扱っているのだという認識を改めてわたしに突き付け、わたしをゾッとさせた。

特筆したいのは、〈アクティング・クラス〉の受講生たちの表情、佇まい、語る言葉=せりふに、つまり〈演技〉に、実に見応えがあるということである。ヴィジュアル・ノヴェルという形式の特質を遺憾なく活かした素晴らしい〈演技〉がこの作中には満ちあふれている。簡潔な線と色づかいで描かれている彼女ら彼らが見せる表情は一見起伏に乏しいものに思えるかもしれない。読む者の脳内に響く彼らの話す言葉=せりふは抑揚の平板なものと感じられるかもしれない。けれどもここには読み取られるべきニュアンスと感情がぎっしり詰まっている。

そこに含まれているものを読み取ろうと感覚を総動員したくならずにいられない、これほどの強い誘惑力を備えたそれらはたまらなく豊かだ。ふだんの生活の中でわたしたちが他人の表情を見、その言葉を聞くのとまったく同じ仕方で対峙できるだけのものがそこに含まれているという意味ではこれ以上なくリアルであるとも言えるだろう。この作品の言葉=せりふが読む者の脳内で響く際の抑揚の、ぞっとするほどのこのリアルさは、脳内でそのように響くように考え抜かれて日本語の翻訳がなされているからでもあるに違いない。

恐ろしくかつ素晴らしいのは、このリアルさに混乱させられた読者が、登場人物たちが演技しているのかガチなのか、やがてわからなくなっていくということだ。そしてそれは作中人物たちにとっても現実と虚構という区分が失効していっているということなのだと気づくとき、この作品によって読者はまさに狂気へのプロセスを体験させられている。

演劇、映画といった演技そのものが主たる要素である芸術形式では決して到達し得ない〈演技〉が、ここでは体現されてしまっている。悔しいがこれこそ究極の演技芸術かもしれないとさえ思う。