「仕事が楽しいっていう人も多いけど、でもそれだけじゃ足らないな」と、仕事歴70年の染色家は言う。
「“楽しい”はエンジョイということでしょう。エンジョイは自分の外からやってくるもの。自分の外側に張り付いてるものと言ってもいい。おわかり?そうじゃなくて、仕事は“面白い”ですよ。“面白い”は自分の内側から興味が湧き上がること。英語にするならラブだね。なんでこの人を好きになっちゃったんだろうというような切実が、仕事には必要なんだ」
エンジョイよりラブですよ。自らの言葉にうんうん、とうなずきながら、ゆっくりと自宅の階段を上る柚木沙弥郎さん。アトリエは、昭和25(1950)年から住むこの家の3階にある。
作業机に積まれていたのは、2020年に発表するリトグラフの原画。ピカソやマティスも使った伝説的版画工房〈Idem Paris〉で刷るために、作品を描きためている最中だという。仕事はこんなふうに、美術館やギャラリー、はたまた最近はインテリアショップからの依頼で始まることも多い。
「オファーがあれば、とにかくやってみる。あんまり考えずに引き受ける。我に返らないの。我に返ると、できるかどうかって余計なことを考えてひるんじゃうから。そうなると今の自分より先に広がらない。ひょいひょいと乗っかっちゃえば、がむしゃらにやるしかないからね。そうすればだいたいのことは、できるもんです」
恐れているのは自己模倣の繰り返しになること。面白がれなくなること。年もとったし、仕事は基本的に一人だから、限界を超えられないことが少しずつ増えてくる。それでも自分の内側から興味が湧き出ることを信じて、「まずは乗っかってみる」のだ。
染料を自分好みに調合して用いる型染めから、水彩絵具や色鉛筆を使う絵画まで。いつだってハッとする美しい色を描いてきた柚木さんが、モノクロームの墨画をモチーフにした制作を持ちかけられたのは、2018年の夏。
「無鉄砲に受けたはいいけど、墨一色で、しかも筆描きの絵なんて初めて。まあ人生最初で最後、いたずら描きみたいなのも面白いと思いながら一気呵成に仕事をしました。練習?練習はしないのよ、面白くなくなっちゃうから。練習したのをなぞったって仕方ない。ぶっつけ本番と言うと粗末に聞こえるけれど、練習して本番がつまらなくなったら、おだぶつだもの」
とは言うものの、家の中を見回すとそこらじゅうに鉛筆描きのスケッチがある。思い浮かんだ絵を描きつけたのか作品の下描きなのか、アトリエだけでなく食卓の上にまで。
「そうね、いつも頭ん中で、次は何を描こうかなあと考えてはいる」
なるほど、練習はしないけれど練習以前の“筋トレ”は常に続けているわけだ。そうすれば仕事にひるまないでいられるからと柚木さんは言う。
「自分にひるんだらいい仕事はできない。おっかなびっくりはダメよ、仕事は度胸と情熱。失敗したらどうしようったって、えいやっと思ってやるよりしょうがないじゃない。人の意見を聞くのもいいけど、最後に頼るのは自分のほかにないでしょう。絵を見て“感動した”なんて言われても、こっちは何にも感動しないよ。薄いカテゴリーに収まっちゃってる言葉なんてちっともあてにならない。誰かの言葉より、自分を信じる方がいい」
それにしても、一つの仕事を飽きず、一度も中断せず、70年間も続けられるなんてただ事ではない。
「外国で初めての個展をした時、過去何年間分の作品を持っていったの。そしたら即座に聞かれましたよ。“今年描いたのはどれだ”って。つまり“今あなたは何に興味があるのか?今が大事で過去は必要ない”と、そういう考え方なんだね。だから翌年からは新作だけを出すようにした。
過去は必要ないと言われるのは、年をとればとるほどキツイですよ。いいものを作ってきた自負はあるし、それが気持ちの支えにもなるんだから。でも過去のものを繰り返してばかりいたらおしまいなのは、確かなんだ。過去を大事にしてもいいけれど、過去から自立していかなくちゃダメ」
ちなみに、今、興味があることの一つは、町へ出ること。アトリエに飾った灯台のオブジェは、富ヶ谷の小さな骨董店で見つけたものだし、渋谷のブックショップにもよく出かける。
「店まで行って実物を見なくちゃつまらない。自分で探さないと栄養にならないんだ。こないだはさ、なんでみんなタピオカミルクに並ぶんだろうと思って、そういう店で買ってみたの。でも大したことなかった。やってみないとわからないものですね」
まだやるべき仕事がある、
最近やっと気づいたの。
「どんな才能が欲しいですか?」という問いに、「もっと長生きできたらいいなあ」と、答えた柚木さん。この回答には続きがある。
「やってないこと、できてないことがたくさんある。まだ何かできるはずだと気づいたの。ほら、絵具のチューブは、終わりだと思ってもぎゅうぎゅう押しゃあまだ出るでしょう。チューブのシッポを切ればもっと出せる」
個人で仕事をする以上、自分が生きているのがどういう時代で、自分はどういう立ち位置で絵を描くのかを常に意識するべきだ、ときっぱり。
「そうじゃないと、仕事はいい姿で世に出ていかない。この年になってますます感じるわけ」
そんな時にオファーされたのが、先ほど話に出た墨画、平安時代の絵巻物「鳥獣戯画」を題材にする仕事だった。諸行無常の気分がはびこる時代に京都の絵仏師が描いたとされるその絵を見て、自分も現代社会の中での立ち位置を改めて確認したい……という誘惑にかられた。この絵をどう伝えるかが今の自分の使命で、自分の創作の転機になるかもしれないと感じたのだ。
「僕が思うに鳥獣戯画というのは、戦乱にも飢えにもつぶされない人々を描いたものですよ。社会がどんなにネガティブな雰囲気に巻き込まれていても、人はつぶされない心の余裕を持っている。サルやウサギの生き生きとした表情や滑稽な動作は、そういう真実の表れなんだ。そして何がすごいって、荒れた町の様子を見てなお、絵描きがその真実を感じ取ったのがすごい。
若い人に言いたいのはね、どんなひどい状況でも、たとえ自由を奪われても、“面白い”と思うものを自分で見つける力さえあれば、乗り切れるということ。ラブを自分でつかむのよ。今日の話で大切なのはそこだけですね」
仕事術三箇条
・ENJOYよりLOVE。
・我に返らない。
・練習よりも“筋トレ”が大事。