「また、ニッポンを旅しよう」染色家・柚木沙弥郎

染色家・柚木沙弥郎さんが、かつて旅先で描いていた膨大な量のスケッチブック。1986年に刊行された、作品集『旅の歓び』(用美社)には、それをベースにした作品が掲載されている。これまで国内外さまざまな土地を旅をしてきた柚木さんが考える日本を旅する魅力とは。

初出:BRUTUS No.923「新・ニッポン観光。」(2020年9月1日発売)

photo: Norio Kidera / text: Chizuru Atsuta

「那覇の市場、魚 蟹 蝦 豚 野菜 菓子 乾物 かまぼこ 色と形の生々しさ 人間の熱が ここにはまだ 充分に燃えている」

1986年に刊行された、染色家・柚木沙弥郎さんの作品集『旅の歓び』(用美社)の中にこんな一節がある。これまで国内外さまざまな土地を旅をしてきた柚木さん。その中でも日本を旅する魅力は、現地の人々の生活に触れられることにあるのだという。

「海外の場合ももちろん現地の生活ぶりにはワクワクするけれど、それはまったく異文化として捉えるもの。日本の場合は言葉も通じるし、なんとなく知っていることも多い。つまり知ったつもりになっていることも多いということ。だから、日本で見たことのない景色や知らない文化に触れると、海外の旅以上の驚きや喜びがあると思うんです」

柚木さんがかつて旅先で描いていた膨大な量のスケッチブック。それをベースにした作品が『旅の歓び』の中に掲載されている。ふとした町角や市場、さまざまな生業(なりわい)の人々が働く様子など、その土地の日々の営みの風景がつぶさに描かれている。戸隠(とがくし)の木挽き、松本のスイカ売り、飛騨高山の道具屋、角館(かくのだて)の商店、大石田の朝市、伊豆の家、横浜の坂道……。

中でも大きなカルチャーショックを受けたのは沖縄だった。それも戦後すぐの。

「当時はドルの時代、昔ながらに残る沖縄の文化とアメリカの文化が入り混じり、気候も生活スタイルも食べ物も、もはや日本ではなかったですね」。もっぱら「やちむん」を観に行くのが好きだったという柚木さん。やちむんの窯がまだ読谷村(よみたんそん)に移る前の壺屋エリアにあった時代、市内の真ん中にたくさんの窯があり、煙突から煙がもくもくと出ていて、なかなか面白い光景だったそうだ。

「教え子だった沖縄出身の女性に案内してもらったんだけど、彼女の仕事場にハブがニョロニョロと出てきてね。そしたら長い物差しでバシッと叩いて簡単に退治しちゃった。勇敢だったね(笑)。沖縄の日常の風景なんだなあって妙に感心しちゃって」

その土地にしかない“暮らしかた”を垣間見られるのが旅の醍醐味だと柚木さん。最近残念に思うことは、そういった日本の風景が徐々に減っていること。

「観光地には、ビルやショッピングモールがどんどん建てられて、みんな同じ景色になってしまった。旅する方も地理感覚がなくなって感性も鈍るでしょう。つまり、街の骨格というのかな、建物一つとっても、その土地に根差したものがきちんと残っている場所を旅したい。そこにしかない景色や文化があれば、土地の人も自信を持って紹介してくれますから」

そして、どんなに技術が発展しても百聞は一見にしかず、自ら動き、リアルな体験をしなければ意味がないとも。

「旅はプロセスが重要なんです。誰かに連れていかれる旅だと道も覚えないから、なるべく一人で行くのがいい。現地の空気を吸って、普段の生活では知り合えないような現地の人と交流して、現地のものを食べる。その土地の文化に触れて、肌で感じて実感が伴わないと。インターネットや映像で観る世界とは全然違う。世の中こんな状況だから、行ける頃まで準備して、まっさらな状態でもう一度、知ったつもりになっているニッポンを旅してみるのもいいんじゃないかな」

柚木さんの『旅の歓び』の最後はこんなふうに締めくくられている。

「ひょっとして自分が生まれる以前からこの世に存在するかのようなもう一人の自分に何時か出遭えるのではないかという期待がある。それがほとんど実現しそうな気がするのが、旅においてだと思うのだ。旅の歓びとは多分このスリルのことではないだろうか」

高揚感と少しのスリルと。それは実際に体験しないと味わえない。新しい気持ちでニッポンを旅してみる。もしかしたら、自分の心を映し出したような姿形もそっくりのもう一人の自分と、ひょっこり出会えるかもしれない。

旅のスケッチを見せてくれる柚木沙弥郎さん
旅のスケッチを見せてくれる柚木沙弥郎さん。「画一された景色じゃなくて、土地の風格があるような場所を旅したいね」