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世界初?宇宙に連れて行かれた男の話。Vol.2:宇宙への道は、ZOZOの倉庫バイトから始まった

1961年にユーリ・ガガーリンが宇宙に行って半世紀ちょっと。宇宙に行った人は世界でも560人弱である。今でも宇宙飛行士になるのは狭き門なのだ。しかし、おそらく世界で初めて、さほど行きたくもなかったのに、宇宙に行ってしまった男がいる。これは、前澤友作の付き人であり、驚くほど自然体なのに数奇な運命を辿った、平野陽三という男の物語である。

photo: Yozo Hirano / text: Atsunori Takeda

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宇宙への道は、ZOZOの倉庫バイトから始まった

この連載タイトルの通り、宇宙に行くつもりがなかったのに、なぜ平野陽三は宇宙に行ったのか。いや、そもそも何者なのか。ZOZOの倉庫のアルバイトである。

働き始めたのは2007年の秋。当時、京都で建築デザインを学ぶ大学4年生だった。愛媛県今治市に生まれ、画家だった祖父の影響もあって、幼いころから絵に親しんできた。だが、「直線を引くよりフリーハンドで線を描くのが好き」だと気づき、建築の道は断念。順調に単位は取得しながらも就活にリアリティーを持てず、ダラダラ過ごしていた。

「そんなときにZOZOの求人を見つけたんです。サイトがイケていて、採用ページを見ると20代の男女が楽しげに働いていたんです。東京のこんなお洒落な職場で働くのはカッコいいかもと思ったんですね。まあ結果、千葉だったんですけど」

zozo時代の平野さんの抱負
ZOZO時代で仕事が楽しいと知った26歳のころ。メッセージに書いた抱負は今も変わらず。

すでに新卒採用は終了。バイトのみの求人だったが、千葉まで面接を受けに行って合格。卒業を待たず千葉の幕張に転居した。倉庫での仕分けや発送の仕事をして月に16万円、家賃4万5000円のアパートで暮らしつつ卒論を仕上げて無事大学も卒業。すぐに倉庫から商品撮影部にかわり、バイト入社1年後には正社員に登用された。

「カメラの心得はなかったけどルーティンを覚えるだけだったので、仕事自体は簡単でした。何より会社の雰囲気が最高で。みんな若くてファッション感度は高いしノリもいい。学校の延長みたいな雰囲気なのに、会社は目に見えてぐんぐん成長していく。すごく楽しい職場でした」

「おい、そこのガム食ってるヤツ!」

そんなある日。社員全員が最上級のお洒落をして集い、食事とおしゃべりを楽しむ「社員総会」の場で、平野はスピーチを行う重役からマイク越しに叱責を受けてしまう。

「専務がスピーチを中断して僕の方を指さして『おい、そこのガム食ってるヤツ!』って……。普段からガムを噛みながら撮影してたんで、礼節の境が曖昧になってたんですね。何百人の前でこっぴどく吊るし上げられて、『もう辞めるしかない』と思いました」

同時に思っていたのは、「怒られたまま終わるのはダサすぎる」ということ。経営陣のスピーチも終わり、壇上は誰もが自由に思いを語れる場になっていた。そのいちばん最後に平野は手を挙げた。

「まず謝罪をして、その後、普段どんな気持ちで働いているかをお話ししたんです。そして最後に言ったのが、『ガムは噛めば噛むほど味がなくなるけど、ここは噛むほど味が出てくる会社だと思うんで、僕もなんとかくらいついて、一生懸命働きたいです』って。今考えても全然面白くないんですけど、それで笑いと大きな拍手が起きたんです。その何日かあとに、CEOの前澤友作さんに食事に誘われたんです」

前澤友作は真のカリスマだと思った

「ガム事件で認識されたんでしょうね。『ガムのヤツ』って呼ばれましたから(笑)。当時の前澤さんは、よく社内をうろうろしていて業務の隅々まで自分で見ていました。そんななかで、僕がモデルのキャスティング担当になったんです」

前澤さんは「モデルは顔出しした方が絶対カッコイイ」と主張していたが、当時のモデル事務所の常識では、ファッション通販のECサイトでは、モデルは原則顔出しNGだった。ネット上での著作権や肖像権に関するルール整備ができていなかったからだ。平野はモデル事務所との粘り強い交渉を行った。

「とにかくモデル事務所と話をしましたね。雑誌同様にモデルを扱えるよう関係を構築し、定常的にブッキングする前提でギャラ交渉し、新人の顔見せとオーディションの流れをゼロからつくって……。やり始めると、こういう仕事が自分の性に合ってることに気づいたんです。今となっては、顔出しは当たり前ですけど、僕がそのときに基盤をつくれたんじゃないかなと自負しています」

こうして、前澤さんからも存在を認められ、食事や飲みの場にも呼ばれるようになった。当時から前澤さんは独自の道を歩んでいてカッコよかった、と平野はいう。

「2011年の東北地方太平洋沖地震災害支援のチャリティーTシャツ販売などはよく知られていますが、それ以前、2003年のイラク戦争のときにも『NO WAR ON IRAQ』としてチャリティーを行って全額寄付していますし、それでいて全然メディアには出ず、真にカリスマだと思いました。

たとえば『世界平和』っていうメッセージ。ヘタすると臭くなっちゃうような思いを、当時30代前半だったパンク少年みたいな若い社長が、さらに若い20代の我々にどうすればまっすぐ伝わるかを考えて発信してくる。その伝え方にも魅了された覚えがありますね」

ISS内でNO WARのメッセージを掲げる前澤友作
2007年、「ZOZOTOWN」を運営していた〈スタートトゥデイ〉が東証マザーズに上場した際のセレモニーでは、5人のメンバーがTシャツにスプレーでメッセージを記した。当時の画像をパズルにしISSから地上に向けて発信。

ゼロからイチをつくり出すことの面白さ

だが、平野は、結局5年あまりでZOZOを離れることになる。最後に担当していた仕事は、中国進出プロジェクト。そしてこのときの仕事が、本当にやりたいことを見つけるきっかけにもなった。

「『ZOZOTOWN CHINA』がでて、僕は現地で中国人モデルを使った撮影のベースをつくるために、1年ほど上海と日本を行き来しました。それがめちゃくちゃ楽しくて!

中国語はちゃんと話せないし、文化が全然違うので商品の売れ筋も外す。日本の売り上げが1日数億円なのに対し、中国では2万円とかなんです(笑)。でもそういう、ゼロの状態から自分たちでイチをつくる過程がたまらなく面白くて!」

ZOZO CHINAを立ち上げた頃
「ZOZOTOWN CHINA」の立ち上げメンバーだったころは、何もかもが挑戦の連続だった。上海にて。

だが、撤退が決定。平野は呆然としたという。努力が報われなかったからではなく、日本の「普通に1日何億円も売り上げてしまう」ような、出来上がった環境に戻らざるを得ないことに対して。

「喪失感というか、そのままこの環境で働き続けるのが、ぬるく感じてしまったんです。これはダメだ、自分の好きなことを自分の力でやらなくちゃ、って思いました。そこで自問自答していたら、小さいときに映画をよく見ていたことに気づきました。それで前澤さんのところに行って『辞めさせてください』って言ったんです」

「映画を撮りたい」という平野に、前澤さんは「いいね!」と笑顔で応じたという。

28歳、未知の映像制作の世界へ

希望していた劇場用映画の助監督の職は見つからず、半年後、平野はCM制作中心のプロダクションのいわゆるADとなった。

「お給料は半分以下。当時28歳で、まわりは新卒や専門卒の10個ぐらい年下の子たち。仕事はCMの企画をプレゼンテーションするお手伝いから、現場の雑用全般。カチンコも鳴らします。人生で初めて仕事がつらいなと思いました。

最初の半年は何も教わらず『とりあえず現場に行け』と。仕事がわからないので技術さんたちの中で立ち尽くすという。しょうがないからやたらみなさんのコーヒーを作って入れていました。1日何リットル作ったことか!(笑)」

それでも、仕事への真摯な姿勢と生来の要領の良さで、在職2年のうちに一人で現場を回せるようになった。そこで気づいたのは、まず「映像とはきわめて特殊な世界である」ということ。

「CMの監督も助監督も映画をやりたい人が多いんですよね。でもなかなか撮れるもんじゃないし、CMって映像でいちばん予算があるジャンルなので、CMをやりながら映画を撮りたいんだと、よく耳にしました。

もちろんCMの世界もすごいです。1フレームへのこだわりやセンスにはリスペクトです。自分には難しい世界だなと痛感しました」

だが、2年で映像の世界を離れてしまう。最大月5本のCM制作というハードワークをこなすうち、「CM制作の現場の回し方」をおおむね「わかってしまった」のだ。

そして、宇宙への“出戻り”へ

飽きてしまったわけではない。むしろ、映像制作の現場で大きな財産を得た。

「全部わかってないといけない。監督さんはもちろん、撮影部さん、照明部さん、美術部さんなどすべての部署とのやり取りの窓口になりますし、100人ぐらいのスタッフとコミュニケーションを取らないといけない。タイムスケジュールも全部見ます。どんな業種でも若手社員はみんな映像の制作現場に研修に行けばいいと思います(笑)」

扱う商材やスタッフは異なれど、制作進行の行う仕事は同じ。「好きなこと」として選んだ仕事はルーティン化してしまったが、今度は違う分野に活かせるとも考えた。

「それで、今度は『好きな人』と一緒に働こうと、ZOZO時代の仲間とEC事業を始めるのですが、そうこうするうちに前澤さんから『オレのやることをいろいろ手伝ってくれない?』って声を掛けられたんです。

前澤友作を肩車するイーロン・マスク
入社してすぐに担当した、〈SPACE X〉でのイーロン・マスクと前澤友作さんの会見。

“ZOZOに戻る選択肢はないな”って思ってたら、『月に行く』って聞いて。やっぱりこの人やばいなって思ったのが出戻りのきっかけです。で、〈スペーストゥデイ〉にジョインした最初のお仕事が、LAでのイーロン・マスクさんとの会見だったんです」

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