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2010年、詩人・吉本隆明が「人はなぜ?」を語る。聞き手:糸井重里 〜後編〜

御年85歳。吉本隆明さんは今でも執筆、言論活動を続けています。いつでも変わらぬ姿勢で思想し言葉を紡ぎ出す吉本さんのことを糸井重里さんは“本駒込の富士山”と呼び、吉本さんのご自宅に幾度となく足を運び、問答を繰り返してきました。吉本さんと糸井さん、2010年最初の問答のテーマは「人はなぜ?」。2人の言葉の中にその答えがありました。

Photo: Kazumi Kurigami / Text: Ito-soken

「お前は何だ?」と問われたら、
「俺はもの書きだ」と答えます。

糸井重里

吉本さんが政治だけじゃなくて、多くのジャンル、領域に向かって、広く考えを向けてきたのは、どのあたりに原因があるんですか?

吉本隆明

一番ラディカルな左翼と、一番ラディカルな右翼との相互交歓の形というのは、戦争中の日本には相当あって、ひどい相互交歓だったんですよ。

糸井

友達同士が右と左みたいな。

吉本

だけど、仲が良い。最保守と、最進歩と、どっちかに傾いていくわけではなく、均衡を取りながら。

糸井

その右左の交歓の中で、テレビ論が生まれたり、映画についても詳しくなったり、科学についても興味を持ったりすることになった。それが吉本さんの領域を広げる原因だったと考えてもいいんですか?

吉本

そう思います。右も左も同じだ、っていうのは戦争中の実感ですね。

糸井

戦時中からの、右も左も隣組として、交歓していた歴史がなければ、全然、違う性格になっていた、と。

吉本

そうですね。僕は勉強が好きじゃなかったけど、学術的なことは嫌いじゃなかったから、もしかしたら、そういうことをやっていたかもしれません。理想の話になっちゃいますが。

詩でも、文芸でも、それを趣味にして、工学や化学のような理科系を職業にしながら、悠々と、のんびりとしていたかもしれない。だから、今で言うと、誰でしょう。一番好きなのは、中村稔さんでしょうか。

糸井

弁護士で、日本近代文学館の名誉館長もされていますよね。

吉本

あの人は、僕の考える理想の姿だなあ、って思っていますよ。

糸井

なるほど。それが不本意にも、吉本隆明になってしまった、と(笑)。でも、おかげで、僕たちは、吉本さんから、いろんなことが聞けたり、お話を伺えるチャンスができました。街のどこかに吉本さんがいて、「こんにちは」と会えるわけですから。

お寺ではないですが、僕たちにとっての境内のある暮らしにはなりましたよね。時々、この家には何の関係のない人もいるじゃないですか。

吉本

そうですね(笑)。

糸井

あの状況は、学者だったり、弁護士だったりしたら、ちょっとない状況ですよね。つくづく、吉本さんの人生って、お寺に似ているなあと思うんです。田舎のお寺と言うと失礼なのかもしれないけど(笑)。

吉本

はい、はい。

糸井

田舎にお寺があって、住職はなまくら坊主で、勉強しているのはしているし、サボるのはサボッているし、「さあ、鐘を鳴らすか」って鳴らして、境内には関係のない人が遊びに来ている。

以前から僕は、吉本さんのいらっしゃるこの場所は東京より広い場所だと思っているんですよ。「この境内はちっちゃいけど、広いぞ」と。そういうのが今の時代のお寺のあり方じゃないかな、と思ったりする。宗教じゃないお寺のあり方というのはこの時代、何かあるような気がするんですよね。

吉本

そうですね。「お前は何だ?」と問われたら、「俺は“もの書き”だ」と答えますね。一番の入口。あとは言いようがないです。ただの“もの書き”なんですよ。

糸井

そうか。“もの書き”はいろんなことを考える機会に出会うし、書く都合で、嘘をつけなくなったら、調べなきゃならないし、自分が悩んだことも表れちゃうし。“もの書き”という人生ってありますね。確かに。

吉本

もっと極端なことを言うと“もの書き”というのは、文筆家に限ることなく、言葉を定義するっていう役割がありますね。とても限定的な言い方になっちゃいますが。

糸井

語部という職業があったように、ものを書く、“もの書き部”みたいな感じですね。

吉本

そう。そして、それを本当は、政治や経済がやれば、一番いいんです。

糸井

飛び越えてね。

吉本

しかし、経済だと、大企業はダメで、中小企業が中心にならないといけないんです。これが原因で、どういう風にことが動くとか、ひずみを被るとか、一番わかりますからね。

糸井

中小企業は大衆操作しないで生きていけますから。大企業になると大衆操作が必要になってしまいます。

詩人・吉本隆明、コピーライター・糸井重里2

太宰治が好きなのは、
自問自答の塊だから。

糸井

吉本さんは、自分の中で、問いかけて、答えていくという、自己問答のプロセスを今に至るまで無数に経験してきたことが自分なんだとおっしゃっていますが、吉本さんだけではなくて、あらゆる人間がそうであると考えていいんですよね。

吉本

そうあってもらいたいです。

糸井

自分の中で“問う”“答える”ということをしないで、簡単に人に聞いてしまうと、きっと育たないものがありますよね。

吉本

そうです。例えば、政治家は、政治現象に対して、どういう見解を個人または集団として持つか、ということばかり考えるやつなんです。それをやらないとろくなことも起こらないし、立派なことも起こらない。

糸井

機能として満点のことを考える人は山ほどいるんだけど、なんでそれを考えるかとか、どこに弱みがあるかとか、自分を勘定に入れた悲しみとか、それがあるかないかというのは、まさに自問自答の経験ですよね。

吉本

それがない限りは同じですよ。何年経っても。

糸井

吉本さんから自問自答の話を聞いたときに、「吉本さんが太宰治のことをこんなに好きなのは、太宰治が自問自答の塊だからかな」と思ったことがあるんですけど、あれだけ文章を信じた人が、あれだけ曝け出しているんですよね。

あとで読んでみて、びっくりしたんですけど、こんなに自問自答なんてできるもんじゃないってくらいに自問自答の分量が圧倒的に多くて。青春の文学という以上に、あれだけ自問自答できる能力というのは、あれは吉本さんのおっしゃることにぴったりとハマる文学者だと思いますね。今でも、お好きですよね。

吉本

はい。僕らの若い頃、一番、活発だったときでしたから。

糸井

ベストセラー作家で、あれだけ曝け出していて、スキャンダラスな嫌われ者でもあったわけですよね?

吉本

そうそう。彼は全部兼ねている。全部やっちゃって、終わったあ、という感じ(笑)。

糸井

お会いになったというのも、贔屓目になる理由だったりすると思うんですけど。

吉本

そうですね。運良く会えて、向こうも、相当本音に近いことを言ってくれて、印象深かったですよ。

糸井

そのときは、吉本さんは問いかける側の人だったんですね。

吉本

はい。そうです。

糸井

そのときは、吉本さんは心がウキウキしたんですか?

吉本

会って目の前で見るまでは、ウキウキしたけど、会って、話になったら、ウキウキというのはすっ飛んじゃって、ズキンズキンと内に入ってくる。そんな感じだったですかね。

糸井

吉本さんは生意気盛りのときに会っているんですよね。

吉本

随分、生意気なことを言って、怒らしちゃうかな、と思う場面もありました。「太宰さんという人は気分が重くなったことなんてないですか?」とあまり軽々と聞いたから、「いつだって重いさ」という答えが返ってきちゃって(笑)。

糸井

そのときの吉本さんには「俺は重いぞ」という自信があったんですね。

吉本

そうです。会ってみて、あまりに軽く見えたところが、面白くなかったんですよ(笑)。

糸井

青年は軽さを嫌いますからね。

吉本

その通りです。軽くなかったことはないんですか?という意味で聞いて、「いつだって重いさ」と。
そのついでに、「お前、男というのは何だか知っているか?」と聞くから、うっかりしたことを言うわけにはいかないから「いや、わかりません」と言ったら、「男の本質はマザーシップだ」って言ったんですよ。もうギャフンです。

「あっ」となって、自分はなんて薄っぺらなことを言ってしまったんだ、と。そう痛感しました。突然、重い、軽いとは関係のない、男の本質という話を聞かれて。

糸井

そこには何重もの意味がありますよね。

吉本

それでおっかないから、うっかりしたことは言えないものだなって思った覚えがありますよ。

幻影を無限に肥大化させる
本駒込の富士山。

糸井

吉本さんが質問をするとしたら、誰に何を聞くんでしょう?

吉本

太宰治に会った頃は、武田泰淳とか、小林秀雄とか、そういう人には聞いてみたいことはありましたね。

糸井

今、誰かに疑問を聞くならば?

吉本

疑問ですか……社会でも、国でも、なんでもいいですね。ほとんどが絶望的だと思っていますから。俺とは関係ないよと本当に思っています。

ですが、以前は偶然でもいいから、彼らに会えたら、聞いてみたいことはなかったか、と聞かれたら、そんなことはなかったと思います。
でも、今はなくなりましたね。自分よりも前の世代の人の話は聞いてみたかったですよね。

糸井

ずっと飛び抜けて親鸞とか?

吉本

そうですね。途中はいないね。

糸井

そうなると自問自答しかないですね。俺が考えて、俺が答えて。

吉本

そうですね。全然触れてこなかった人はいますよ。儒学者の荻生徂徠とか。江戸時代の思想的な部分を支えた人ですけど、僕は江戸幕府が嫌いだから(笑)。

尊王の志士、桂小五郎みたいな人が好きだから、そっちのほうは触れていないんです。本も読んでいない。優秀な人なんでしょうけど。

糸井

民家に住んでいる人に興味がありますもんね(笑)。

吉本

民家に住んでいるとか、学校に行っていないとか。学校に行っていない思想家には割合関心を持てます。独学している人とか。

糸井

実は、僕、吉本さんにあだ名を勝手につけているんです。本駒込の富士山って。本駒込よりも富士山のほうが大きいんだけど(笑)。無理矢理はめようみたいな。でも、民家に住んでいて何かをした、っていうのは、そういう意味だと思うんですよね。

吉本

そうですね。

糸井

幻影の部分を無限に肥大化させていく、という。

吉本

そうだと思いますね。

死というイメージは
年齢によって変わっていく。

糸井

僕は吉本さんから「死というのは、自分に属さないんだ」ということを学びました。そのときから、自分で、死ぬんだ、生きるんだ、ということを決めなくなったんです。それだけで、今日が楽しく、そして、意義を持ちます。年寄りはみんな自分で決めたかのように、もうダメだとか言いますけど、あれはダメですね。

吉本

本当にそうです。最近、わかったことがあるんですけど、死というイメージは年齢によって変わるんです。

昔は、死というもののイメージが怖くてね。棺桶に入って、焼き場に行って、火をつけられて、じりじりと背中のほうから焦げていくというのが、死のイメージだった。そう思っていたときに瀬戸内寂聴さんに会ったら「死ぬのは怖くないわ」って言うんです。

坊さんだから、そういう話をするんだと思っていましたけど、でも、糸井さん、これは変わるんです。こういう風に考えて、こう考えて、こう考えたら、今のことはどうでもよくなった、ということではないんです。

今、思うと、おっかないイメージで、よく自分は死を考えていたな、と思えるぐらい。年齢に伴って、変わるんです。それがわかって、寂聴さんにもあんまり反感を持たないようになりましたね(笑)。

詩人・吉本隆明、コピーライター・糸井重里2

解決する、ではなく、
跳び越すという選択。

糸井

難問を見ると、一生懸命、その難問と付き合う“難問好き”という人がいますよね。吉本さんが『共同幻想論』を書こうというときには、難問だったのを楽しんだと思うんですよ。

僕も、自分の得意なことについては、人がどうしてそんなことするの?ということを、簡単ではなく、難しいほうに行こうとしたこともあるんです。

あと、吉本さんとお話をしていて、よく話に出る“モテる”という話も、“モテる”やつって、どんな難しい女にも行きますよね。落ちないという女にも電話したりする。どんどん電話したり、どんどんそのことを考えたり。

で、そのことと、とことん付き合えるやつが答えを出すんですよね。今の死の話で、棺桶で焼かれるというのは、死という難問から逃げようとしていたんじゃないですかね。そして、おそらく、死という難問と、だんだん付き合えるというところが出てきたんじゃないですか。

他人から見たら、吉本さんの仕事は、なんでこんな難しいことばっかりやるんだろう、俺なら嫌だなと思うことばかりやってこられていると思うんです。でも、吉本さんはご自身の苦手なお話に関しては逃げてきた。例えば、「女の人のことは……」とおっしゃるのは、女の人のことは全部そういう風に見てきたわけですよね。

吉本

少しわかる気がします(笑)。

糸井

死の問題は若いときは難問中の難問で、考えたくないんだと思うんです。僕は難問のままですけど。吉本さんはわかってきた。怖がってはダメですよね。つぶされますよね。

吉本

怖がってはいけません。そうかあ。僕にとっては女の人は難問ですね。これは解ける可能性はない。ダメだったなと思います、子供の頃から。

糸井

それは勝ち負けで言えば、勝てっこない、という発想ですよね。先日、吉本さんの娘さんから、吉本さんの奥さんは、吉本さんのことを可愛いと思っているという話を聞いたんですよ。可愛いというジャンルは勝ち負けじゃないじゃないですか。

吉本

いやあ(笑)。

糸井

乗り越えちゃっている(笑)。

吉本

そうですね。根本的な発想はわかっているような気がします。自分に解けない難問が出てきたら、跳び越しちゃう。で、その続きは何なの?と問われる間もなく、跳び越す。とにかく跳び越すところに自分の身を置くんです。はたから見ると、なにも解決していないんじゃないかと思うけど、次は跳び越しちゃった後から始める。

糸井

解決はしているんだけど、法則化ができてない。違いますかね?(笑)

吉本

どうかな?

糸井

で、また、跳び越しちゃう(笑)。

吉本

でも、本当にわからないからなんですけどね。気がついたら、今の年齢だから。

糸井

親鸞の91歳が近づいていますよ。いよいよ行きますね。

吉本

まあ、行きますね。これは(笑)。