面接試験で「ぼくは友達がいっぱいいます」という「友達」を、社会的な友達だとしましょう。もう一方にいるのが、個人的な友達です。社会的な友達が、100人いても1000人いてもいいけど、みんな自分の役に立ってくれます。
しかし、個人的な友達というのは、まったく価値観が違うのです。個人的な友達は、「いる」とか「いない」とかを考えることすらどっちでもいいのです。それは、本当にうれしい友達ですよね。
「ぼくは友達がいっぱいいますよ」という人が目の前にいたら、そいつのことをなぜか嫌いになってしまいませんか?理由は、それが「金いっぱい持ってますよ」「権力いっぱい持ってます」ということと同じ意味があるからです。
そんなのだいたい言うほどじゃないよ、ということも、みんな知っています。言うほどじゃないものをひけらかすような人は、やっぱり友達として面白くないですよね。
友達がたくさんいると言っているのに、友達として面白くないヤツ……そういう構造がある、典型的な話です。だから、吉本さんも「そんなの大部分はウソですよ」と言うのです。
コトバ:1
『僕ならこう考える』(1997)より
コトバ:2
人間を外に引き出したほうがいい、社交的なほうがいい、こういう考え方は、メディアの発達とともに力を持ってくるんでしょう。インターネット、携帯電話と、コミュニケーション手段が発達していくのが最近の世の趨勢で、これに逆行することはできないんですが、
『人生とは何か』(2004)より
コトバ:3
普通の人間っていうのは、たいてい、幼い頃の友だちの存在を忘れたりとか、薄めたりとか、利害のことだけが先に来るとかっていうことになっていきますからね。実際、その時期の友だち関係をずっと持続できたら、文句なしで、それは本当に本当にたいしたもんなんです。なおかつ、そういう友だちがひとりでもふたりでもいたり、利害とか生死とか、そういう際どいものも含めて持続できたら、その友だちはその人にとって宝物みたいなもんなんでね。でも、たいていの人はそういうことはないんです。普通はゼロなんですよ。まあ特別な人で三人もいるよって人もいるでしょうけど、それは、それだけのことであってね。
結局、ほとんど全部の人が本当は友だちがゼロだと思うんです。もちろん、人間には性格的に社交家の人とそうじゃない人もいますよ。でも、社交家だからいいとか、そうじゃないと損でポツンとしてるってことはないんですよ。結局、どっちだって同じ、どうせひとりよ、ということなんです。月並みだけれども人生というのは孤独との闘いなんですから。
『悪人正機』(2001)より
コトバ:4
詩篇『転位のための十篇』(1953)所収「その秋のために」より