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横浜〈信濃屋〉。顧客や米兵たちから享受したスタイル

町に溶け込み、何十年も商いを続ける名店がありました。頑なにスタイルを守り、自らの目利きで揃えた商品を並べ、深い知識と愛情を持って物語る店主。ちょっと癖があってもご愛嬌。この人のオススメだから欲しくなる。

Photo: Kento Mori / Edit: Takuhito Kawashima

生まれも育ちも横浜の白井俊夫さんは、チェザーレアットリーニやフライなど、今や当たり前のように百貨店で見かけるブランドを数多く日本に紹介してきたレジェンド。あの小津安二郎も接客していたそう。
77歳になる今でもなお、店頭に立ち続ける白井さんは洋服と野球の話が大好きなジェントルマンです。

ヤンキース最近ダメでしょ。2000年の頃は強かったけどね。バーニー・ウィリアムズなんかは、洋服を着てもシャレもんですよ。昔の野球選手のユニフォームって、フランネルだったんですよ。ホワイトウールのずっしりしたやつ。球場行った時にじっと見てました。今のはすっかり味がなくなってしまったよね。

横浜〈信濃屋〉店内
店内には、チェザーレアットリーニやラバッツォーロなど、白井さんがセレクトしたクラシコイタリアのアイテムがラインナップ。

そうだそうだ、僕自身の話だったよね。僕は昭和12(1937)年生まれで、小学校の2年生の時に終戦になってるのね。だから戦時中は、静岡の方に疎開してたんです。

そんなことで戦後、こっちに帰ってきた時は、このあたりはオリーブドラブ一色ですよ。横浜は進駐軍の占領下になっちゃったんですね。そういう影響もずいぶんあるんですよ。進駐文化っていうんですけど。
だから学生の頃は、アメリカの通販カタログ、シアーズ・ローバックとかモンゴメリーワードを見ておばに頼んでよく買ってもらっていました。

中学の時に、編み上げブーツを買ってもらったのを覚えています。オーダーしたのを、知人のネイビーハウジングに送ってもらってそこへ取りに行ってました。50年代って、映画でも音楽でも、アメリカが一番良かった。そりゃ、かっこよかったですよ。黒人なんか特に。

黒人の米兵がプライベートで着ていたチャコールグレーのフランネルのスーツ、これがすごく印象に残ってるんです。3つボタンのスーツ着てね、ピンクの靴下なんかを履いて、黒い靴をピカピカに光らせて歩いていたんですね。
だから当時、ピンクの靴下を一生懸命探したけど、そんなのあるわけないですから。

もうかなり前のことですが、信濃屋に僕がお世話になり始めたのが1955年で、高校3年生の時。当時はアルバイトです。裏方ですよ。掃除したり、商品札付けたりで、接客なんかしませんよ。今はみんなバイトに接客とかさせたりしてるでしょ。でもそれってお客側からしたら、失礼なこと。

我々信濃屋も、なかなか接客はさせなかったですからね。先代の社長はそんな考えでした。「何にもわからないなら、モノなんか売っちゃいけない」って。だから一生懸命、雑誌とったりして、勉強してましたよ。それに銀座なんかによく行ってね。

例えばチロルってお店知ってる?チロルではデザートブーツ、壹番館ではダッフルコートなんか売ってたね。こうした一流のお店に行っては、よく話を聞いてました。でもね、聞いているうちに欲しくなるんです。

それで僕が社員になったのは、1961年か。お客さんからいろいろ学んだね。いろんな話を聞いたり、着ているものを見たりしているうちに、自然と身についたって部分が大きいんですよ。靴なんかもね、すごく古い靴をキレイに履いてたりするんです。

「この靴を本に譬えりゃ、古本じゃないんだよ。古書なんだよ」だとか、「麻の洋服はね、3年間着るとしたら、2年間はムダなもの。最後の1年を楽しむのが麻なんだよ」とかね。そういった本当のオシャレな人がいたのよね。

横浜〈信濃屋〉白井俊夫

週に2日間だけですけど、店頭に立つことは楽しいですよ。でもね、正直手応えがないですよ。悪いけど。くだらないウンチク言う連中はいるけども、そんなの何にも面白くないし、僕なんて、もう50年もやってるので。絶対こっちの方が知ってるわけですから。

ウンチクじゃなくて、素朴な質問をしてくれる人が、意外といないんですよね。怖いんですかね(笑)。もうちょっと、お客さんも楽しんでくれればいいんですけどね。
ざっくばらんに、野球の話でも、世間話でも話しに気軽に来てくれてね。お互いに構えちゃうこともないと思うけどね。