「“やさしさとは何か”というのは、今の僕が世の中に伝えなければいけないことじゃないかと思うんです。右半分の脳が壊れ、左半分だけで見て、感じた“やさしさ”をね」
2014年、脳出血に倒れ「人生の中断」を余儀なくされてしまった塩見三省さん。それから7年の時をかけてゆっくりと復活、現在は左半身の麻痺は残るものの、俳優活動を再開させている。2021年6月には再生までの道程を綴ったエッセイ『歌うように伝えたい』を上梓した。そこにはこんな印象的な言葉がある。
「私の命と希望は私だけのものではない」「人の回復を願わずして私の回復もないのだろう」「甘えていいじゃないか、互いに」。どれも心の深淵に触れる言葉たちだ。
「おもてなしをするとか、寄り添うとか、親切にするとか、そういう言葉が記号的に世の中に氾濫するようになったけれど、それはやっぱり、やさしくする側の一方的な行為ではないのかって、僕は感じるんです。“本当のやさしさ”とは一方通行のものではない。“あなた”から“わたし”へ、“わたし”から“あなた”へ、1対1の相互関係の中だけで成り立つものだと思うんです」
映画にテレビにCMに、オファーのすべてを断ることなく演じ、プロとしての矜持を胸に仕事に邁進していた60代半ば。人間ドックでも問題なく、自身の健康に1ミリも疑いを持ったことがなかった。しかし突然発症。世間から見捨てられたように「一匹の虫」となってベッドに横たわり、どん底に突き落とされた。ただただ暗闇の中をさまよう日々だったが、病院内で出会った「戦友たち」と言葉を交わし交流することで、少しずつ光を見出していったという。
「やさしくする方も、される方も、ギリギリのところで魂が交わったというか。その中で僕が感じとったのは、“生きてていいんだよ”ということだったんです。死にたいというベクトルと、生きていきたいというベクトルが交わったゾーンの中で感じた一縷の“やさしさ”。地獄にいる僕のもとに天井からスルスルと降りてきた縄のようなものだったんです」
自分よりも過酷な病状の「戦友」。まだ20代の「戦友」。自分が回復した姿を彼らに見せようと心に誓い、相手の回復を願う。それは「究極の魂の交歓」であり、「本当のやさしさ」がそこにはあると塩見さんは感じた。
「やさしくする、される、その行為によって、する側もされる側も人格が変わるくらい重いものがあるんです。リハビリ病院で出会った長嶋茂雄さんとの交流もそうでした」
日本球界のゴッド・長嶋茂雄さんが脳梗塞で倒れたのは04年のこと。同じ病を患う塩見さんに「これも人生だよ」と声をかけてくれたという。
「グッときました。スポーツマンだった長嶋さんこそ、その挫折感は大変なものだったはずなのに。でもそんな長嶋さんだからこそ言えるんです。しかも長嶋さんは、リハビリをしている僕に向かって、“頑張れ!頑張れ!頑張れ!”と叫んだんです。大きな声でね。何事だって、みんな振り返ったんですよ。
でもそんなの関係ない。長嶋さんは僕だけに言っている。僕だけに言葉を投げている。僕の声は塩見さんに届いてるか、ちゃんと届いているか、って。親切とか寄り添うとかっていう話じゃない。自分も不自由だ、だからぶつける、という“壮絶なやさしさ”。僕もその思いは全力で受け取らなければと思いました」
そして、弱い自分を自覚し、受け入れることができて初めて、人に寄りかかってもいいと思えるように。
「入院していた半年間、リハビリをしていた半年間、倒れてから約1年、一切誰にも会わなかったんです。こっちも半分壊れて、ひねくれていましたしね(笑)。でも、こんな僕に声をかけてくれる人たちがいるということを知ったときに、もう一度歩こうと思えた。この人たちに甘えていいんだ、甘えてみようと。
彼らは、決して“やさしくしよう”と思ったわけじゃない。施してあげようと思ったわけでもない。それはやっぱり、1対1で相対して、心の奥深いところで交わろうと、そういう行為だったと思うんですね。真のやさしさだと思うんです、それが」
いつものようにそっけなく接してくれた北野武監督、ギクシャクする左足のアップを撮影した三池崇史監督、そして故・大杉漣さん、岸部一徳さんら昔馴染みの役者仲間たち。
「やさしさは大切な感情だと思う。それがあれば、“人間が人間の時間”を生きていける。どんなことになっても、その感情がある限り。やさしい。美しく、深い言葉ですよね」