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山野アンダーソン陽子と佐々木類による、それぞれのガラスの展覧会

スウェーデンのストックホルムでガラスのテーブルウェアを作る山野アンダーソン陽子と、金沢を拠点にガラスを用いたインスタレーション作品に取り組む佐々木類。ガラスでつながる2人のアーティストが、互いの展覧会を前に久しぶりに再会。制作を通して伝えたいこととは?

photo: Satoko Imazu (portrait) / text&edit: Asuka Ochi

ガラスに魅了される、スウェーデンと日本の2人が再会

佐々木類

2016年にアーティスト・イン・レジデンスでスウェーデンへ行った時、工房で会ったのが最初ですね。

山野アンダーソン陽子

当時、私の方は自分のガラス工房を移動しなくてはならなくて、一時的にシェアしていた場所で偶然一緒になって。

佐々木

もともと日本人でガラスをやっている作家さんがいると聞いていたのが陽子さんで。工房に並べられた器にふわっと光が差し込んで、綺麗だなぁと思ったら陽子さんが現れたのを覚えています。

作品が持つ、どこか静かなイメージとのギャップに驚いたんですよね。それから少し作品のお手伝いもさせてもらって。

山野

器と本人のイメージが違うって、よく言われるんですよね。

佐々木

それはいいことですよ。スウェーデンの冷たい光の下で器を見たのもありますが、陽子さんはもっと朗らかな人だったので。作品も日本人の作家ものから想像するガラスと違って新鮮でした。

山野

スウェーデン人の作家の作品と間違われることも多くて。吹きガラスで工場生産に近いような形を目指しているところが、日本における作家ものの方向性と少し違うのかもしれません。

佐々木

私の中でスウェーデンの吹きガラスのイメージは、ぽってりと重くて柔らかいんですけど、日本だと薄さを求めたり、歪みを楽しんだりしますよね。

あと、スウェーデンではガラスを素材にオブジェを作る人の方が多くて、器をメインにしている人は珍しい気がします。

山野

器だけを仕事にしている人には会ったことがないですね。昔は工場にたくさんの職人さんがいて、ワイングラスなどを一つ一つ手作りしていたんですが、その技術が機械化によって必要なくなってしまった。

それでみんな安価な器よりも、高値がつけられるオブジェや彫刻を作るようになったんですよね。でも、私は工場で手作りされていたような頃のものが、自分で使うのにも好きで、世界で何人かそういう器を作る人がいてもいいのかなと思って作り続けています。

佐々木

日本ではコロナ禍を経て家で過ごす時間を大切にする風潮もあって、作家ものの器を買う文化が育ってきた気がします。逆に、私がやっているインスタレーションなどの表現は、ガラスの分野でも弱いように感じる。それもスウェーデンとは違う、日本のお国柄ですね。

山野

ガラスの表現の仕方にいろいろあること自体はいいことだと思います。類さんともそうだったように、別のベクトルで表現をしている人たちと工房で一緒になって、助け合わないといけないのが面白くて。

アーティスト同士がそれぞれのスタイルやニーズに寄り添って、互いをリスペクトしながらフェアに意見し合うのが、師匠がいて見習いがいるような日本のやり方とは違う、スウェーデンならではのもの作りなんですよね。

佐々木

自分がやっているのと違うことを互いに学び合えるのは、共同作業の多いガラス制作の醍醐味でもありますね。

左:山野アンダーソン陽子右:佐々木類
左/山野アンダーソン陽子、右/佐々木類

素材の魅力を伝える表現

佐々木

もう一つスウェーデンがいいなと思うのは、すべての創作を、表現や美しさというベクトルで見てもらえること。日本では、工芸と現代アートなどに分類して理解しようとするところがあるので。

山野

私も今回の日本での展示で、ガラス工芸家が美術館で展示できるのは珍しいと言われましたね。作るものにフィーチャーして、ガラス工芸だから工芸作家とカテゴライズされるのは不思議だけれど、それが日本なのかなと思ったり。そういう違いも面白いですよね。

私自身は自分が工芸家だというよりも、コンセプトを持ってテーブルウェアを作っていて、今回はそれを別の方向から思考し、表現をしただけで、やっていることはそもそも同じだと思っているんですよね。

佐々木

どういうきっかけで展示につながったんですか?

山野

もともとアートブックを作るために、グラフィックデザイナーの須山悠里さんと写真家の三部正博さんと共にスタートしたプロジェクトなんです。プロジェクトのコンセプトは、私が作る作品のコンセプトと重なるものでもあります。

例えば、ビールグラスとして作ったものが花瓶として使われたり、ワイングラスでゼリーが作られたりすることを、私自身が決められないのが器のいいところだと思っていて。画家がそれを描く時も、私が作ったモチーフがどんなふうに描かれるかを、私が決めることはできないんですよね。

今回の展覧会は、アートブック制作過程でスウェーデンの画家の作品を現地で展示した時に、日本の画家の作品、写真作品などすべて一堂にできたら面白いと考えたのがきっかけでした。

佐々木

それは見てみたいですね。

山野

ガラスって完成形は冷たいものですが、私たちにとって、出来上がるまでの過程では熱くて流動的なものであるというのを伝えたくて映像作品を作ってもらったりもしています。

ガラス作家がガラスを作り、画家がガラスの絵を描いて、写真家がガラスを撮って、キュレーターが展示空間に落とし込む。みんながそれぞれの領域でガラスのことを考えてくれているような状況を作りたいと思っていました。

その念頭にあったのは、いかに多くの人に、私たちがやっていることを噛み砕いて観てもらい、理解してもらえるかということ。

ガラス自体は身近なものなのに意外とマニアックに捉えられがちで、産業自体もどんどん衰退していってしまっているんですよね。自分が動くことでガラスの世界が少しでも世の中に浸透して広がれば、時間をかけて技術を得た職人が職を奪われることがなくなるかもしれない。

私自身ももっと技術を磨き、作品作りに向き合うことができるのではないかと。今回の展覧会は、そのための最高の悪あがきでもあるんです。

佐々木

わかります。私たちが使っているガラスの共通言語って、一般的には全く理解されないんですよね。硬いと思われているけれども、作り手にとっては軟らかくて熱いものだったり、壊れやすそうでいて鉄より強靱にできたり。そういう性質がコンセプト的にも面白くて、私も作品に取り入れています。

山野

類さんは今、どんな作品を作っているんですか?

佐々木

ガラスには数百万年経っても土に戻らないものもあって、中に入っているものが半永久的に保たれる。植物も焼成してガラスに閉じ込めると、モノとして扱われたりするんですよね。

今度の個展では植物から出た空気をガラスの中に閉じ込めた作品も作っています。コロナを経て移動性をテーマに場所を記録したインスタレーションになるかなと。

それと同時に、私もガラスの裾野を広げていくにはどうしたらいいのかを考えていて。ここ数年、茶道の概念的要素に興味を持ち、コンセプチュアルな器も作り始めています。アート作品は難しい場合が多いですが、器だと触ったりもできるので。

山野

類さんの器も見てみたいです。私には類さんのようなアーティスト性があるとは思っていないけれど、自分の中にある、いいなと思う感覚を信じていいというふうに思っているんです。

その感覚は私だけのものではなく、一人一人の心の中にあるもので、万華鏡で見た素敵な瞬間を他人に共有しようとしてもできないように、一つとして同じではない。自分が作る器は、そういう一人一人が自由に使っていいなと感じて完結するものだと考えています。

使い手がいて成り立つ、ある種のパフォーマンスアートのような。だから器を“単なる工芸”とは思わないし、それは自分のアートを家にどうぞというような押しつけでもない。誰かにとっての生活の中でのアートというか。

展覧会というと、展示する側がプレゼンテーションしたものを受け取るような場と考えられることが多いと思いますが、そうではなくて、関わるすべての人にそれぞれの見え方や感じ方があっていいということ自体も表現したかったんです。今回の展覧会を観た後で、自分の家にあったガラスが違って見える瞬間があったら嬉しいですね。

佐々木

お互いのやり方でガラスを身近なものにして、表現の裾野を広げていけたらいいですよね。やっていることのベクトルは違うけれど、かなりの共通点があるのかなと。そして最終的に目指している地点は同じだと感じています。

植物の記憶をガラスに詰め込んだ、佐々木類のインスタレーション

18人の画家が描く、山野アンダーソン陽子のテーブルウェア