出羽三山、秘境の湯治場
村の生活と文化を守る
地元の若き青年団たち
東北地方ではまだ梅雨も明け切らない、2013年7月14日。
大蔵村の肘折温泉では、開湯祭が開催される。肘折温泉の開湯の日とされるこの日、湯座神社に祀られた湯の神様に感謝し、長い間温泉を守ってきた先人たちの偉業を讃えるための神事だ。
白装束姿の若者が地蔵神輿を担ぎ、ホラ貝の音と共に温泉街を練り歩く。旅館の軒先では地元の人や温泉客たちが地蔵行列を待ち構え、各源泉から汲み上げた湯を地蔵様にかけるのだ。柄杓ですくった湯を優しくかけ、ありがたそうに手を合わせるおじいちゃん、おばあちゃん。
「肘折温泉」の由来には諸説あるが、肘を折った老僧がこの地のお湯に浸かったところ傷が癒えたという説が縁起として語り継がれ、自分の体の悪い所と同じ場所へ、地蔵様に湯をかけると治るとの言い伝えがあるのだ。
一方で、バケツいっぱいのお湯を抱えた地元の子供たちは嬉々として地蔵神輿を追い回し、白装束の若者たち目がけてバシャバシャと湯を浴びせている。
大蔵村は村の南方を月山、葉山とそれに連なる山々に囲まれた有数の豪雪地帯。それらの山々を源にする伏流水が銅山川、赤松川となって村を貫き、やがて大河、最上川に合流する。
豊富な水源に恵まれ風光明媚な田園風景に彩られた大蔵村のさらに雪深い山の奥地にあるのが、開湯1206年の長い歴史を持つ肘折温泉だ。
火山の噴火で形成された「肘折カルデラ」と呼ばれる盆地の底で脈々と続いてきた温泉郷は、湯治場として人々を癒やしてきた。
また修験道の拠点、出羽三山の一つ、霊峰月山の登山口でもあることから江戸時代には山岳信仰の霊湯としても栄えた。厳しい自然環境に寄りながら、独自の風土と湯治文化を大切に受け継いできた肘折の人々だが、一方で、温泉客の減少や高齢化など先細りの現状に危機感も募らせていたという。
「このままでは子供たちが生きていく集落が消えてしまう。変わらなければ生き残れないという恐怖はずっとあった。開湯1200年の記念の年を前にうずうずしていた頃、東北芸術工科大学の方々や山伏修行に来ていた坂本大三郎君(山伏、イラストレーター)など様々な人との縁に恵まれたんです。
村を出ていた地元の若い連中もちらほら帰郷し始めて、それは本当に良いタイミングとしか言いようがなかった」と〈つたや肘折ホテル〉柿崎雄一さんは言う。
彼らとの出会いで始まったアートプロジェクト『ひじおりの灯』は今年で7年目。芸工大の学生が作った灯籠が各旅館の玄関前に飾られ、夏の夜の温泉街を艶やかに灯す。ライブやワークショップなど関連イベントも増え、年々盛り上がりを見せている。
それを支えているのが、地元の肘折青年団の面々。冒頭の開湯祭で活躍していたのも彼らだ。
高校のない肘折では、子供たちは中学を卒業すると半ば強制的に親元を離れ、高校へ通う。その多くは県外の大学へ進学、そして就職し、外の世界で得た多くの人生経験と共に30歳前後で再び村に帰ってくるという。
東京でのIT関係の仕事を辞め、家業の〈そば処寿屋〉を継ぐため肘折へ戻った早坂隆一さんもその一人。現在は、肘折青年団団長を務めている。
「地元の活性化とか、若い観光客を増やそうという大義名分よりも、自分たちが楽しもうという思いですね。地元の人間がイキイキしていたら、肘折って面白そう⁉って、興味を持ってもらえると思う。その甲斐あってか、ここ数年、同世代の常連客も増えています」と、早坂さん。
かつて湯治とは、「七日一回り、三回りを要す」と言われてきた。ここには、旅館と温泉客という垣根を越え、共に暮らしているような不思議な繋がりが今もある。
「子供の頃は居間にはいつも常連のじんちゃん、ばんちゃんがいて“帰ってきたがぁ”って逆に出迎えてくれた(笑)。
そして大昔の肘折のことや若い頃の話をたくさん聞かせてくれるんです。今思えば、それは素晴らしい財産。過去を踏まえてこそ、新しいことができると思うから」と、〈大穀屋〉柿崎道彦さんも言う。
「ここには、豪華な料理も、観光客の目を引くようなお土産屋も、深夜まで賑わうバーもない。けれど、疲れた体を癒やし、訪れる者を温かく迎える湯がある」と柿崎雄一さん。
守るべき価値を守りながら、多くを受け入れ、時代に合わせて柔軟に更新していく。それができるのも、肘折の人たちがこの村の湯の持つ“湯治”の力を信じているからだろう。