「楽しい」「かわいい」「かっこいい」と比べると、「怖い」とアニメーションが結びつく機会は少ない。だが、よく考えてみれば、アニメーションはその存在自体が恐怖を掻(か)き立て得るものなのだ。次の瞬間に何が飛び出してくるかわからないゼロから作り上げられた世界で、本来生きていないものが動くのだから。
未知なるものとの対峙
一から創造した世界をスクリーンに展開できるアニメーションには、まずその怖さがある。巨匠ルネ・ラルーによるカルト的名作『ファンタスティック・プラネット』を「怖いアニメーション」ツアーの入口にしよう。未知の星で、常人の理解を超えた存在のドラーグ族が、我々人間に似た生物を奴隷として無慈悲に扱う本作。
ローラン・トポールのぶっ飛んだ絵と、人情など存在し得ないような乾いた世界観、さらには切り絵を動かすカクツキもまた、スムーズなアニメーションを見慣れた我々の目には異物として映る。唖然とするしかないシュールな展開の連続には、矛盾するようだが、見惚れるような恐怖を感じる。
造形の自由を“悪用”する
キャラクターの姿を自由に造形できる特質を“悪用”するかのごとく、ゾワッとするような人形を作り、「やめてほしい」と思うくらいに動かす人たちがいる。
例えば、ロバート・モーガンは、人体パーツを切り離したり溶かしたりして人形を作り、動かす。その奇妙な作品を観たら、自分の体にも同種の想像をしてしまう。オンドレ・スヴァドレナは『MRDRCHAIN』というCG作品で、神経がひっぱられたり、内臓が輪切りになったりと、生理的嫌悪感を抱かせる造形を極めた。
忘れられたものが動きだす
恐怖を煽るだけがホラーではなく、異形のものたちはアウトサイダーとしての悲哀を感じさせることもある。ブラザーズ・クエイの代表作『ストリート・オブ・クロコダイル』では、古びた人形が動きだす。
原作者のブルーノ・シュルツの言葉を借りれば「1年の13ヵ月目」──つまり存在しながらも認識から外れてしまう忘れられた領域──を描く今作に怖さを感じるとすれば、ここには私たちが見ないようにしている領域があって、いつか自分もそんな場所に追いやられてしまうかもしれないと想像するからではないだろうか。
純度の高い混沌を見せつける
チリのアーティスト・デュオによる初長編『オオカミの家』は、ここまで取り上げた“怖さ”をすべて持ち合わせたかのような作品だ。描かれるのは、崩壊寸前に陥ってしまっている少女の内面世界。不気味な造形の等身大の人形は膨れては燃えつき、家具も動きだしては崩壊する。壁からは巨大な顔と瞳が現れて、こちらを監視する。
異常な思考を押しつけられる場で長年暮らしたことで、肉体のみならず精神もまた自由を失ってしまう。そんな人が陥る恐怖が、ささやき声とともに純度高く展開される……アニメーションの自由さは、こんなにもカオスなホラーを描くポテンシャルに満ちているのだ。
他にも、一筋縄ではいかないホラーアニメの名作
『骨』
チリ/2021年/『オオカミの家』を観たアリ・アスターが監督と意気投合し製作総指揮を担当した短編。少女は人骨を使い、死んだ保守系政治家を蘇らせる。『オオカミの家』との同時上映作品。
『この写真の片隅に』
監督:ロバート・モーガン/英/1997年/古い写真の中の自分を見て、幸せな時代を再び創造しようとする男。首吊り死体やウジムシが頻出するも、ピュアなその姿が愛おしく感じる不思議。