母性と父性を高次元で備えた山に対して持つべき礼節
医師の稲葉俊郎さんが山と出会ったのは、大学生のとき。東大医学部に入学したものの、期待が大きかったからか、授業にも同級生とのやりとりにも面白みを感じられず、馴染めずにいた。そんななかヘルメットをかぶってゲバ棒を持ち、学生運動を再現しているような人に、燻(くすぶ)っているのを見抜かれ、登山に誘われる。
「いきなり連れていかれたのが、冬山の雪上訓練。しかも当時、遭難事故による死者数が世界で最も多いとされていた、谷川岳でした」
滑落したときにピッケルで崖から復帰する方法や、登山靴にアイゼンを装着して岩壁を登る方法、万が一遭難したときの雪洞の掘り方など、初心者にはハードな訓練を体験。
「一瞬ひるんだものの、そもそも僕は熊本出身なので雪山自体に興奮していました。そして案の定、やってみたらすごく楽しかった。結局僕は、すべてを受け止めてくれる存在を求めていたのでしょうね。自分の全エネルギーをぶつけても、それに応えてくれるような、母性と父性を兼ね備えた存在を。それらが高い次元で結合している山は、自分にとってその象徴でもあったのです」
以来、もののけに取り憑(つ)かれたように、暇さえあれば山に思いを馳せ、週末の登山を中心に生活が回っていく。やがて東大医学部・山岳部のOBや現役学生が夏場に運営している、涸沢(からさわ)診療所という歴史ある山岳診療所で手伝いをするように。
「山みたいに設備が整っていない環境で、いかにベストを尽くすか。涸沢診療所での経験は、自分の中で医療の原点になっています」
学生なので医療行為はできないものの、間借りしていた山小屋のスタッフや登山者の相談に乗る機会も多く、そうやって様々な人と関わるなかで、あることに気がついた。
「それまで僕は登山する側、つまり山に対して消費者といえる立場でしたが、山を守ってくれる人がいるから楽しく安全な時間を過ごすことができていたのです。そういった環境を提供する側に回りたいと思うようになり、そのあたりから山への向き合い方も少しずつ変わってきました」
例えば山を歩いて美しいと感じる自然も、完全に手つかずなところはほとんどなく、人が手を入れて守っているからこそ、ある種の調和が保たれている。海外と違って日本の山は、基本的に登山料を払わず、無料で入山できるので、「守ってもらっている」という意識が稀薄なのでは、と稲葉さんは指摘する。
「それが、自然に対して我々人間が持つべき礼節なのだと思います」
長い時間、山を歩いていると、自分の意志とは関係なく、こうした考えにふと思い至ることがある。
「山歩きの最たる魅力は、空白を獲得できることだと思っています。僕はそのために登山をしていると言っても、過言じゃない。空白っていうのは、意識をしないと獲得できないもので、代表的なのが人間の眠りです。多くの人は何となく惰性で寝ているかもしれませんが、眠りこそ生命の知恵であり、起きているときに接する外界から、生命という内界に戻ってリセットする時間といえます。
山を歩く行為も同様で、空白を獲得することでリセットされるんですよね。頭は人体最大の異物だと僕は思っているのですが、とにかくおしゃべりが多すぎる。だけど山を歩き続けていると、体が勝手に動いて、頭が傍観者になるような、いつもとは逆の視点が生まれるのです」
そうやって生まれた空白は、本来の自分に戻れる場所でもあり、ホワイトボードのように新たな気づきを自由に書き込める場所にもなる。
「命のつながりや、この宇宙で人間が生きる意味など、普段は忘れがちなプリミティブなことを僕は登山のたびに感じます。山はこちらが追求して対話を深めるほど、神秘のべールを剥がしてくれるのです」