監督のキャリアや社会的背景から、作品の真意を読み解く
保守的な思想を持った映画作家が、保守的思想を込めた作品を作って、保守層の観客が観る。あるいはリベラル的な思想を持った映画作家が、リベラル的思想を込めた作品を作って、リベラル層の観客が観る。
現在の日本映画界ではそれが当たり前のことになってますが、同時代のハリウッドの優れた映画作家の作品を嗜んでいれば、それがいかに退屈なことかがわかります。
ここではトッド・フィリップス、ジョーダン・ピール、ジェームズ・ガンの3人を例に、世界の第一線で活躍している映画作家が、思想的にどれだけ複雑な文脈を作中に持ち込んでいるかを紹介します。彼らの作品をリピートしたくなるのは、観客の立場によって作品の捉え方が変わる、その懐の深さにあります。
まず、3人に共通しているのは広義の「コメディ」出身者であることです。フィリップスは『ハングオーバー!』シリーズが大成功したことによってハリウッドで影響力を持つようになり、ピールはもともとコメディアンとして活動していて、数々のコメディ作品を自身でも手がけてきました。ガンは習作時代、〈トロマ・エンターテインメント〉というコメディ要素の強いB級ホラー映画の制作会社で仕事をしていました。
彼らの近作は単純に「コメディ」としてジャンル分けできる作品ではありませんが、その根底には様々な社会的なイシューを相対化して、それを笑い飛ばすような精神が息づいてます。現在のアメリカ社会は、人工妊娠中絶や銃規制をはじめとする数々のイシューにより、思想的内戦状態にあると言ってもいいほど分断されています。
そんな状況下でハリウッドのビッグバジェットを使って幅広い層に向けてオリジナルストーリーを語るには、思想や立場の違いを横断するようなコメディ的跳躍力が重要になってくるのではないでしょうか。ちょっと反則技でもありますが、コメディの場合、作品に主義主張を込めながらも最後に観客を煙に巻くことができたりもしますしね。
トッド・フィリップス『ジョーカー』
近年、それを最も鮮やかにやってのけたのはフィリップスの『ジョーカー』でしょう。フィリップスにしてみれば、できることなら『ハングオーバー!』シリーズのような露悪的なコメディ作品を作り続けていたかったのかもしれない。ところが、ハリウッドのビッグバジェット作品のマーケットは年々スーパーヒーロー映画の寡占状態となり、社会的にもインモラルなコメディ作品が許されるような空気ではなくなってきた。
そこでDCの超有名キャラクターを利用してあのような作品を世に送り出したのは、メタ的な意味においても極めて批評的な行為でした。作品の中身においても、『ジョーカー』の主人公アーサーは笑いのセンスが誰にも通じないコメディアン志望の中年男性でしたよね?あの設定は世の中の状況が笑えないほどシリアスになっていることを象徴しているとも言えるし、ある意味、フィリップス自身が作家として追いやられてしまった場所であるとも言えるのではないでしょうか。
フィリップスはもともと反骨精神の塊のような作家なんですね。なにしろ、GGアリンという、ニューヨークのハードコアパンクシーンで奇人として名を馳せていた人物に密着した『全身ハードコア GGアリン』で監督としてのキャリアをスタートさせているくらいなので。ところが、そうした反骨精神が込められた『ジョーカー』が、本人の意図を超えたところで社会的影響を持ちすぎてしまった。
それこそ、安倍元総理を暗殺した山上容疑者も、本人のものと報道されているツイッターのアカウントで『ジョーカー』についてたびたび言及していたりもしてました。公開当時、フィリップスは「『ジョーカー』の続編はない」と明言していたんです。
にもかかわらず、レディー・ガガをハーレイ・クイン役に起用して2作目を作ることになったのは、そうした様々な社会的な反響を受けて1作目のアンサーを提示する必要に迫られたからなんじゃないか。もっとも、どこまで信じていいのかわかりませんがミュージカル作品になるらしいので、それこそまた煙に巻くつもりなのかもしれないですが。
ジョーダン・ピール『NOPE/ノープ』
ピール作品を読み解くうえで重要なのは、言うまでもなく人種問題です。『ゲット・アウト』で監督デビューして以降も、彼はプロデューサーや演者として様々な仕事をしてますが、監督作では3作すべてがアメリカ社会における黒人への差別が主要テーマになってます。
『アス』ではそこに格差社会問題も乗っかっていて、最新作『NOPE/ノープ』では主要キャラクターの一人がアジア系アメリカ人で、広く有色人種が映画界でいかに差別や搾取をされてきたかをテーマにしていました。劇中に登場する謎の飛翔物は、模範回答的な解釈をするなら「白人による搾取の象徴」ということになりますが、ピールの優れているところは、観る人によってどう解釈してもいいような余白を意図的に残しているところです。
注目すべきは、コメディアン出身のピールが、映画では一貫してホラーというジャンルムービーの枠組みの中で作品を作り続けていることです。人間は生命を脅かすような極限状態に遭遇すると思わず笑ってしまう、なんて話もあるように、コメディは「笑い」によって、ホラーは「恐怖」によって、いずれも過酷すぎる目の前の現実に異化作用をもたらすという点で共通点があります。
彼がコメディアン出身であるという文脈を踏まえておくと、彼の作品のベースに「笑い」の感覚が常にあることに気づかされるはずです。その「笑い」の感覚があるからこそ、彼の作品によって「不都合な真実」を突きつけられる側にいる白人の観客も、エンターテインメント作品として楽しむことができるわけです。もちろん、ピールはただ観客が楽しむことだけでなく、自分の作品が一つのきっかけとなって観客や社会の意識が変わることも願っているわけですが。
ジェームズ・ガン『ザ・スーサイド・スクワッド“極”悪党、集結』
ガンに関して押さえておくべきなのは、2018年に一度キャンセルされたことです。彼はこれまで、落ちこぼれ集団が権威に一泡吹かせるような作品を多く手がけていて、観客の中心となる層も、インテリの批評家たちとは相いれないような都市部以外で暮らしているオタク系の白人男性でした。
一方、ガン自身はとてもリベラルな思想の持ち主で、トランプとその支持層に対して辛辣な発言を繰り返していた。その流れで、ガンが10年近く前にツイッターで投稿していた悪趣味で性的でインモラルなジョークが、彼のアンチやヘイターによって掘り返されたわけです。
当時ガンはマーベル映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ3作目に着手していたのですが、そういう問題に一番過敏なディズニーの作品ということもあって、ガンはこの作品の監督を一度解雇されてしまいます。ただ、そのキャンセル騒動に最初に火をつけたのはトランプ支持者のオルトライト、日本で言うところのいわゆる「ネトウヨ」でした。
それに普段からポリティカルコレクトネスに敏感なリベラルの、いわゆる「ウォーク」な人たちがのっかって、騒ぎをどんどん大きくしていった。ソーシャルメディア時代にありがちな醜悪なケースですよね。
この文脈を抜きにして、最近のガンの作品は語れません。キャンセル騒動に一度は脊髄反射したディズニーは、ガンをサポートする出演者たちからの抗議もあってガンを再雇用することにするわけですが、それによって製作が数年遅れたことで、それ以降のマーベル映画のスケジュールや内容の辻褄はガタガタになります。
一方、キャンセルされたガンに最初に声をかけたのは、マーベルのライバルであるワーナーのDCでした。ガンはそこでまず『ザ・スーサイド・スクワッド“極”悪党、集結』を作って、その後、スーサイド・スクワッドのメンバーでも最も保守的思想に凝り固まったピースメイカーを主人公に、テレビシリーズ『ピースメイカー』も作りました。
ガンが立派だったのは、そこでまったく作風を変えなかったことですね。いずれもR指定で、暴力描写やグロ描写も手加減なし、登場人物も相変わらず劇中で悪趣味なジョークや暴言を吐きまくってます。
もっとも、例えば『ピースメイカー』では、大柄な黒人のレズビアン女性が非常に重要なポジションを担っていて、ピースメイカーの意識が彼女との関係性の中で変わっていく姿を描いてます。どんなに思想的に偏った人間でも、何かをきっかけに変わる可能性はあるし、そこで重要なのは隣人との関係にある。
ガンは作品を通じて、自分のアンチやヘイターにもそういうメッセージを送ってるんですね。ここ数年間に彼の身に起こったことを踏まえると、笑いながらも感動してしまうわけです。