カニエ・ナハ
忘れたくない一行
瓦屋根今朝不平がない、
中原中也「春」より
『在りし日の歌』(日本近代文学館)収録
朝の到来が空へと回帰させる水、鳥、歌声──、それらを追って共に上昇する視線が、今一度世界を真新しくまなざし始める。裸の目に映り込む景の中、なぜか忘れられない一行が、投影する光がまぶしくて今、目を細めた。そこに在るのは、象形と音楽とが折り重なっている瓦屋根。
忘れたくない、「自身」の一行
うまれたての字がやわらかな枝ぶり
『この中庭が宇宙』(私家版)収録
菅原 敏
忘れたくない一行
あらゆる波止場は、石の郷愁
フェルナンド・ペソア「断章」より
『新編 不穏の書、断章』(平凡社)収録
多くの者が海へ出て二度と戻らなかった大航海時代のポルトガル。サウダーデとは愛したものの不在に抱く、懐かしさ、切なさ、そして諦め。過去に手を伸ばす感情。同時代に生きた萩原朔太郎の「波止場の煙」を思い出す。「歌も 酒も 戀も 月も もはやこの季節のものでない(中略)遠い港の波止場で/海草の焚けてる空のけむりでも眺めてゐよう」。
忘れたくない、「自身」の一行
取り戻せない過去を 取り戻すことを諦めない それが詩を書くということならば
「若さの馬鹿野郎たち」より
『季節を脱いで ふたりは潜る』(雷鳥社)収録
黒川隆介
忘れたくない一行
言葉を意味でわるわけにはいかない
田村隆一「言葉のない世界」より
『詩集 1946~1976』(河出書房新社)収録
詩人はアカデミックで陰気でイケてないというイメージを払拭してくれた。ブコウスキーをポケットに忍ばせて出歩いていた若い時分、この一節を読んだ日からその膨らみは田村隆一に変わった。
忘れたくない、「自身」の一行
墓まで持っていく過去の数が そのみちの面影を彫っていく
『この余った勇気をどこに捨てよう』(私家版)収録
高田怜央
忘れたくない一行
ぼくは言葉を連れ戻せるか?
アレン・ギンズバーグ「オルガン曲を書き写す」より
『吠える その他の詩』(スイッチ・パブリッシング)収録
「言葉を失った瞬間が一番幸せ」と歌った宇多田ヒカルも、言葉を取り戻して「幸せ」を歌にした。日々の暮らしに降りそそぐ、言葉にならない感覚。それをどうしてもあなたに伝えたくて、結局のところ言葉を探すとき、世界はわたしを詩人にする。
忘れたくない、「自身」の一行
ああ、いちご畑になりしわたし。
「ジェラート」より
『SAPERE ROMANTIKA』(paper company)収録