小西康陽
忘れたくない一行
中学生の時、繰り返し聴いたライブ盤に収められていた曲。伝説のブルースマン、レッドベリーの持ち歌に武蔵野タンポポ団のメンバーで歌詞をつけたようですが、ラングストン・ヒューズの詩集にもこんなフレーズがあったような。それはともかく、この物憂いレトリックはずっと自分の心の中で鈍く響いております。
忘れたくない、自身の一行
曽我部恵一
忘れたくない一行
マーシーは本当のことしか歌わない。いや、マーシーに限らず、ロックの歌詞というのは、本当のことを歌う場である。自分が知っている、自分が見てきた本当のこと。それはつまり自分自身、「私」そのものということだ。遠藤賢司は以下のように言った。たとえそれが嘘だとしても、嘘の数だけ自分の命を燃やせばいい。
忘れたくない、自身の一行
前野健太
忘れたくない一行
「おじさん」「おばさん」という一見歌詞には不向きな言葉を、見事に花開かせた。普段使う言葉にこそ、歌の蜜がぎっしり詰まっていると思います。人が年を取るという避けられない事実。そこから目を逸らさず、飛び込んでいって「それも歌だよね」と紡ぐ姿勢に胸打たれます。仲の良い2人もいずれ死にゆく。かけがえのない日常の愛しさがにじみます。
忘れたくない、自身の一行
寺尾紗穂
忘れたくない一行
愛は時間なのだと思う。出会った時とは変わってしまった、と人は言う。でもそれは、別の一面が見えただけだ。恋の炎によって相手を知ることはできない。それは一瞬の幻像だ。相手を本当に「知る」ことなどできないと最後のフレーズは教えてくれる。そのことが腑に落ちた時、人は初めて他者を愛せるのかもしれない。