三豊市仁尾町。戦国時代から製塩業や海運業で栄えた小さな城下町に、その絶景はある。ほんの数年前まで地元民すらわざわざ訪れなかった浜を目当てに、いまや年間50万人もの人がやってくるというのだから驚く。父母ヶ浜に多くの人が集まるようになったのは、2017年、SNSに投稿された一枚の写真がきっかけだった。
干潮時に遠浅の海岸にできる潮溜まりが水鏡となり、空の模様を上下対称に映し出す。その幻想的な光景が、瞬く間に世界に拡散されたのだった。実際、どれほどの景色を眺めることができるのだろう。
期待を胸に高松空港から西へと車を走らせ、1時間ほどで父母ヶ浜がある仁尾町へと辿り着く。さぞかし賑やかな観光地だろうと想像していたものだから、それと対照的な静寂の町に、狐につままれたような気分になった。
夕方の干潮を待つ宿泊先は、窓から浜を一望する〈讃岐緑想〉と決めていた。土地の風土や町並みに馴染む佇まいの住居を得意とする建築家・堀部安嗣の設計によって、2020年に竣工した一棟貸しの宿は、いわゆるホテルとは違い、建築ごと讃岐を、住まうかのごとく楽しめるよう設計されている。
香川の土を配合した菊間瓦の屋根、黒い焼き杉の外壁、伝統的な越屋根など、風土に根ざしたデザイン。部屋に入ると、四国の杉を様々に加工して取り入れた温かみのある空間に、漆器や湯飲み、保多織の寝具や部屋着など、香川の伝統工芸が華を添える。
特別なサービスはないが、だからこそ仁尾の町に寄り添って過ごす時間の尊さを感じられるのだろう。近所で食材を買ってきて、キッチンで料理するのもいいかもしれない。そんなふうに思いを巡らせながら、父母ヶ浜を間近に望む窓際の特等席に座り、日が傾くのを待って浜に出た。
父母ヶ浜には、夕暮れ時に多くの人が集まってくる。つい先ほどまでの町の静けさとは一転、浜は人々の高揚感で溢れていた。そして、いよいよ空と海のショーが始まる。あたりが暗くなるとともに、すーっと潮が引き、砂肌が不思議な波模様を描く。
波を失った潮溜まりは、大きな天然の鏡となって周囲を映し出す。気づけば、周りの人のことなど忘れて、暮れゆく時が紡ぎ出す夢のような光景と戯れていた。静かな仁尾の町に訪れた、まるで祝祭のような夕日の時間。雨が降っても、強い風が吹いても見ることができない、一期一会の風景を、瞼の裏に焼きつけた。