Eat

Eat

食べる

柚木麻子が語る〈とんかつ椿〉のあけび

あの時食べたこんなとんかつ。小説家・柚木麻子による味の記憶。

Photo: Kayoko Aoki, Tomo Ishiwatari, Kasane Nogawa, Kunihiro Fukumori, Hiroki Tsuji / Illustration: Naomi Tokuchi / Text: Hikari Torisawa, Yuriko Kobayashi, Koji Okano, Izumi Karashima / Edit: Keiko Kamijo

とんかつ椿(成城学園前)

とんかつ 
国産豚肉に自家製パン粉をまとわせたヒレカツ¥2,000

昨年は私にとってとんかつ元年とも呼べる年だった。

白いご飯と揚げたてのかつを頬張るとお腹の底でエネルギーが渦巻く感覚がずっと続き、家事や仕事がやけにはかどることに、仕事の打ち合わせでとんかつ専門店に行った夜に気付いた。

一人でさっと食べに行けるところもいいし、ケーキよりも即効性があって、焼肉よりも気負わなくて済む。暇を見つけてはガイドブックに載っている店をせっせと巡っていた私に「実家の近所に、それはもう素晴らしいとんかつを食べさせる店がある。一緒にいかないか」と声をかけてくれたのは、成城学園前育ちの友人である。小さい頃から家族の行きつけで、彼女のお母様も学生時代にアルバイトしていたゆかりの店だという。

「そこ、とんかつが美味しいのはもちろんなんだけど、赤だしが本当に美味しいし、出て来るお茶も美味しいし、なにしろどんなに食べても絶対に胃もたれしないの」と彼女は力説した。

実を言えば、私はサイドメニューにあまり興味がない。あつあつのとんかつとご飯さえあれば十分なのだ。

三十代半ばにしては胃が丈夫なので、さっぱりした後味というのにもそこまで魅力を感じない。それでも、美味しい店に目利きの彼女を信じることにして、一緒に〈椿〉を訪れた。

成城学園前は道が整備され、建物に10mの高さ制限があるせいか青空が広々として見え、よく手入れされた樹木や生垣が目につく。そんな景観の街並みにふさわしく、店名を染め抜いた愛らしい色合いの暖簾が特徴の、穏やかな店構えだ。よく磨き抜かれたテーブルは今書いている長編小説に使う資料をすべて出したとしてもまだあまりそうなほど広々として、店内には油くささがまるで漂っていない。ひんやりとした床、飾られている器の趣味や厨房がまるで見えないせいで、一瞬とんかつ専門店であることを忘れそうになる。

彼女にならってヒレカツ「あけび」とご飯、赤だし、ぬか漬けを注文した。

丸みを帯びた衣の分厚いとんかつには、糸のように細く切ったキャベツとパセリがふんわりと添えられていた。ほんのりピンク色の柔らかいヒレ肉と衣は、まったく隙間がなくぴたりと一体化している。さくさくの衣からはパンの風味がはっきりと香る。揚げ物の衣というよりも、焼きたてクロワッサンを齧っているような気がするほど粉の香ばしさと苦味が立ち昇り、手作りの甘めのソースをかけるといくらでも食べられる。

友人の言った通り、お米の炊き方は完璧で心地よい硬さ、豆腐の赤だしは一口飲んだ後、舌の付け根がじいんとしびれるほど濃厚だ。ぬか漬けはきゅうり、茄子、蕪、大根の盛り合わせだった。ご飯なしでもいくらでも食べられそうなほどの浅からず深からずの漬かり具合で歯ごたえが良く、新鮮な素材の味が浮かび上がる。

さて、野菜嫌いというわけではないが、なにしろ肉とご飯が大好きなので、普段は山盛りのキャベツを食べるのがけっこう面倒だったりする。一言でいうと、嫌いではないけれど、楽しくはない。

ところが、ここのキャベツは水っぽさがまったくなくて、甘く柔らかい。山盛りの葉物野菜を食むことを楽しむ自分にびっくりした。とんかつの油切れが良いだけではなく、赤だしやぬか漬け、キャベツのおかげか、お腹がいっぱいになっても、身体のどこにも重たい感覚がない。食前と食後に出されるお茶も、記憶が正しければ、葉の種類も淹れ方も温度もそれぞれ違っていて、飲み干した後、ため息が漏れた。

〈椿〉のとんかつを知るまで、私にとってとんかつは即効性のあるパワーフードだったが、成城学園前というどこか異国のような街並みのせいもあるのだろうか、穏やかにゆるゆると続く満たされた味わいへと印象が変わった。

どれくらい胃もたれしないかというと、〈椿〉でお腹いっぱいになった後、駅前の〈成城アルプス〉の二階喫茶室で、モカロールを平らげたくらいである。私が大食漢なせいだけではない。〈椿〉は食べた直後に、モカロールがするりと入る、奇跡のとんかつだ。