「おいしそう」の、
奥に描かれた人間関係
食が心を映し出す
腑に落ちる、という言葉があるように、臓物には心が宿ると考えられています。人間は、構造的には土管と一緒。体の真ん中に粘膜の管が通り、口を開けたら尻の穴まで見えてしまう。ものを食べるという行為は、腹の底まで見せるに等しい。だから食事を共にすることは、腹の底を見せ合うことであり、逆に言うと、心を許した相手とだからおいしい食事ができるのです。
人が何をもっておいしいと感じるのかといえば、舌で感じる味覚のほかに、脳が感じる「おいしい」もあると思うのです。3ツ星レストランで恋人と一緒に食べていても、そこでなされた会話が別れ話だったら、おいしいとは思えない。そのお店には一生行きたくないし、砂を噛むような味です。逆に近所の定食屋でも、好きな人と楽しく食べればおいしい。つまり、おいしさの一つはその場の相対的な関係性なんです。
優れた映画監督は、食によってストーリーやキャラクターを巧みに演出する。黒澤明監督の『七人の侍』などは優れたフード映画です。例えば、若侍の勝四郎と志乃の恋の描き方。お花畑で見つけた志乃を勝四郎が追いかけ回し、夜、村で再会するシーン。普通なら志乃が落とした花を手渡しても繋がるのに、そこで勝四郎は握り飯を差し出すのです。志乃はそれを食べずに持ち帰り、家族を殺された老婆にあげる。
さらに、その老婆はその握り飯を食べずに拝む。しかしこの3人、勝四郎と志乃は大切な決戦の夜にいちゃついており、老婆は捕らえた捕虜を勝手に鎌で殺してしまうなど、本来なら許せない行為をしでかすのですが、なぜか観ていて許せてしまう。それは、あれほど食べ物を大切にしているのだから悪人ではない、というのを、観客がフードのシーンから感じているせいだと思うのです。
同様に、宮崎駿ほど食をきっちり描くアニメーション監督はいません。例えば、『天空の城ラピュタ』でおいしそうとよく言われる、目玉焼きをのせたパンを食べるシーン。パズーがバッグに忍ばせてきた朝食のパンと目玉焼きを、シータと半分こにします。お互いが信頼して仲間になった瞬間です。手に手を取って逃げた2人にとって、これほどおいしい朝ご飯はなかったはず。
一方でこのシーンの前、映画の冒頭でムスカの部下が持ってきた食事にはシータは手をつけません。またそのあとのパズーの肉団子入りスープのシーン。残業のためにスープを買いに行ったパズーですが、残業がなくなったことで親方がスープを持ち帰ってしまい、結局パズーはこのスープを食べられなかった。大切なのは、この食べられなかったという部分です。
親方との関係は悪くないはずですが、シータとの距離の近さとは違う、微妙な距離感が伝わります。翌朝、シータと出会ったパズーは空賊に追われて地下へと逃げ込み、先ほどの初めて食事を共にするシーンが出てくるのです。このように宮崎駿作品には、心が通じ合った人としか食べない、あるいは心が通じ合っていない人とは決して食べないというルールが徹底されています。
もう一つ、私が好きな『ハウルの動く城』。この作品で、ソフィーがハウルの城に入り込んで初めての朝食のシーンも秀逸です。彼女が朝ご飯を作ろうとしていると、朝帰りしたハウルがやってきて、すっと後ろから手を回して朝食作りを代わってくれる。しかもかなり手際がいい。ここで女子は胸キュンです。
そしてできたベーコンエッグ。多くの人はこれがおいしそうと言うけど、よく考えてみてください。おいしそうなのは、料理じゃなくてその状況です。ハウルみたいなモテ男が、モテない女の子のために料理を作ってくれる。まさに萌えです。
それから席に着いて食事のシーン。ソフィーとマルクルは一緒に食事をして、そのあとすぐに仲良くなります。でもハウルは、結局食べずに席を立ってしまうんです。ここで食事をしていれば、彼の神秘性は失われます。でも食べないことで、謎めいた人物のまま。宮崎作品の中でハウルは唯一の不良。半ケツまで見せているのに、腹の底は見せない。ミステリアスなハウルに、女子はますますのめり込んでいくのです。(談)