Love

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愛する

美輪明宏さんに聞く。ジブリが教えてくれた恋と愛の話

「パズーの目玉焼きトーストがうまそう!」 とか、「キキってかわいいよねぇ」とか、近所の子供たちとでもワイワイ語り合えるのがジブリ作品の魅力。ただ、もう少し作品を掘り下げて観てみると、世界中の大人たちをも魅了したジブリの深淵な世界が広がっている。そんなジブリ作品から見えてくる恋愛について美輪明宏さんに話を伺った。
初出:BRUTUS No.690『ブルータスのスタジオジブリ特集』(2010年7月15日号)

edit: Toyofumi Makino

夢を追う男、現実的な女
自分本位の「恋」から
相手本位の「愛」へ

すべてのジブリ作品は、根底に愛があり、そこから物語が出発しています。ナウシカの自然に対する敬意であったり、トトロの計り知れない包容力であったり、ハウルが抱く戦争への憎しみであったり。どれも大きな愛を軸にしている。だから観客みんなが心地よいし、親子でもカップルでも、1人で観ても安心して楽しめる。

混同しがちだけど、愛と恋は別物。恋はあくまで自分本位。性欲をはじめ己の欲望に忠実で、見返りを要求してばかり。常に邪推や嫉妬がつきまとう。一方、愛の領域に入ると自分よりも相手が大切になる。

例えば、待ち合わせをすっぽかされても、怒るどころか事故や事件に巻き込まれていないかと心配してしまう。買い物に行けば、自分のものより自然と相手に似合うものを探す。献身、もっと言えば、相手を中心に宇宙が回る。何があってもヒステリックにわめき散らしたりしない。

『ハウルの動く城』で声を担当した荒地の魔女も、最初はとにかく強欲でした。ハウルの心臓を欲しがり、どうにかして自分のものにしようとする。まるでエゴの塊。ところが、魔力を失い年老いた姿になってハウルたちと共同生活を始める。そこで家族のような関係を築いた彼女は、諦観してしまって無垢な存在に達するのです。

自分本位と相手本位の狭間で揺れ動く、それが恋愛です。誰もが恋を入口にスタートするけど、愛まで成長させると、気負いがなくなって楽になる。どんな裏切りも許せる心理状態。相手が自分のもとを去ったとしても、それで幸せだったら素直に喜べる。

『もののけ姫』で私が演じた山犬のモロと、森繁久彌さん演じるイノシシの乙事主(おっことぬし)の関係を「ただの古い知り合い?」と宮崎監督に訊ねたことがあります。そしたら一言、「いい仲でした」って。それだけで充分すぎるほど理解できました。モロが最期を迎える場面には、2つの愛が描かれています。

まずは娘のサンに対しての盲目的な母性。モロは残されたわずかな力で、乙事主に取り込まれたサンの救出を試みる。森を荒らす人間たちと決着をつけるという目的を捨ててまで、母の姿を貫く。同時に、かつての慕情の人にも「私怨に駆られて醜いタタリ神になるなんて情けない。昔の男ぶりが台無しじゃないか」なんて気持ちを抱きます。青春の一時代をともに過ごした相手を見捨てられなくて、サンと一緒に彼のことも救おうとしたんです。

サンとアシタカ
『もののけ姫』サンとアシタカ

ハウルにしてもアシタカにしても、宮崎監督が描く少年は、みんな弱みを持っている。それは純粋すぎるということ。世界に向かって、なんの衒(てら)いもなく夢を語り、理想を掲げる。ところがロマンを拠(よ)り所にするため、現実を前にするとボロボロに傷ついてしまう。そんな迷いのない真っすぐな姿は、男性本来の魅力ともいえる。純粋さは宮崎監督自身の人間性にもいえること。ひたむきに創作活動に没頭するから、スケールの大きな愛が表現できるし、私も気持ちよく参加できるんです。

女性キャラクターは、『ハウルの動く城』のソフィーに代表されるように、とても現実的。苦労を苦労だと思わない前向きな性格で、地に足を着けて毎日を過ごしている。だから、傷つき迷うハウルに的確な対処法を指示できるし、戦争が始まってもうろたえることがないのです。

夢に生きる男、現実に生きる女。どうして、これほど見事に男女の本質を捉えた表現ができるのでしょう。一度監督に訊ねてみないといけませんね。「さぞかし、これまでたくさんの結構な経験を重ねてきたんですね?」と。(談)