10月22日(水)
クソみたいな一日が始まった。パソコンを開く。散らかったファイル。追いかけてくる締切。脳内のタスクが自動で優先順位をつけ、いちばん大事な「暮らし」が後回しにされていく。
メールをチェックする。確認の連続。創作とは別のリソース。子どもの頃、サザエさんで波平が延々とハンコを押す回を観て、大人は楽でいいなと思った。いまはその「楽」が、地獄のルーチンに見える。
電気ケトルが沸く音を聞きながら、心が静かに沸騰していく。真っ白な原稿に向かったのは僕だ。だがその時間には証人がいない。出来事にはいつも証人がいるのに、創作の現場だけは真空だ。署名は僕のまま、体温だけが他人に上書きされる。白さの眩(まぶ)しさを語るのは、いつも別の誰か。
正誤じゃない。ただ標準時が違う。僕の時計はズレて、ここでは定刻。起点の座標だけが静かに移動する。その音に先に反応する耳で育った。これが「構造」というやつらしい。向かい合っているのは画面ではなく、「日記という仮面」だった。本来は他人に見せないものを、見せる前提で書く。噓で塗られた誠実のかけらとして残ればいいと思う。
猫が窓辺で丸くなる。世界が丸くなる速度に比べて、僕の文章はまだ角が多かった。苛立ちは、文字にする直前で湯気だけ残して蓋をする。香りは出す、レシピは見せない。料理としては誠実で告白としては卑怯だ。やがて電源が落ち部屋はまた静かになる。熱いうちにカップに注げば、作業は前に進む。書く/書かないの境目を往復する。「本当のこと」と「無難なこと」。そしてここに記す。
本当の本音は、いつだって書かれなかったほうにある。だから僕は書かれたほうの言葉に責任を持つ。比喩だけで終わらせないために。どちらにも頷きながら、言葉の角を一つだけ残す。触れた人だけが指先を少し切るくらいの、ささやかな危険を。
10月23日(木)
夜、仲のいい友人たちとオンラインで集合した。ゲームは口実だ。どうでもいい話で体温がそろう。僕らは何かを攻略しているようで、実は一週間の機嫌を調整している。
スコアはログに残るけれど、笑いの勘所は記録されない。“いいね”に回収されない即興の揺らぎは、誤読されにくい。終盤で負けた。なのに一人が「今日は勝ち」と言う。多分、会話が勝った。画面を閉じると部屋が少し広い。今日の出来事は大したことじゃない。大したことじゃないほうが、遅れて届く夜がある。
10月24日(金)
大谷翔平に「ドライヤーが欲しい」と言われ、場違いなくらい高い機種を選んで渡した。「デコピンのが壊れてて」と言われて気づく。犬用だった。という夢を見た。無駄に誠実で、少し的外れ。多分、誰かに喜ばれたい願望のやさしい歪み。
10月25日(土)
事務所の帰り道、少し先を一本の影が横切った。イタチだ。細くて長い。街灯の下を、裂け目みたいに低く走る。気づく。僕はいつも、イタチを横に走るものとしてしか見ていない。手前へ来る姿も、奥へ遠のく姿も、記憶にない。流れ星と同じだ。空の奥行きではなく、視界の水平をすばやく横切るから「見た」ことになる。出来事も多分、こうして横からやって来て、横へ去る。奥行きは想像で補うしかない。その想像の分だけ今夜は少し細くて長い。
10月26日(日)
三日で映画一本分を書ける週もあれば、一文字も動かないまま数日が干上がる週もある。努力より気圧に近い。今日も机に向かう、画面を開く。もし一歩歩けば一文字書けるとするなら、僕は今夜、夜通し歩くのに。現実はそうはいかないから、代わりに頭の中を往復する。往復の分だけ、句読点が少し増える。遅いが、遅いまま前に向いている。
10月27日(月)
夜、ドラマのオンエアをチェックした。設計図だった台本が、体温のある絵に変わる。用意した台詞(せりふ)の間に編集で半拍延びた沈黙が滑り込み、図面には描けなかった意味が生まれる。一方で、こちらが大事に置いた石は、映像の速度の中で少しだけ薄まった。そういうズレ、呼吸の差異が映像の面白さだ。
勝ち負けではないけれど、今夜は「ドロー寄りの面白さ」。
10月28日(火)
送信の音が、胸の奥で小さく跳ねた。ネームが上がった。呼吸がゆっくり深くなり、部屋の空気が一段軽くなる。帰りにコンビニでエクレアを買った。通りの野良猫に小さく手を振った。作家の幸福なんて、多分このサイズで届く。家に帰り、猫を膝の上でひっくり返す。こちらの機嫌とは裏腹に、義務のような冷めた目が返ってくる。窓を少し開けると夜が入る。外気が肺の奥まで届き、今日の言葉たちが静かに沈む。
人を楽しませたい。あわよくば褒められたい。それでも今夜だけは自分に喝采を送る。明日はまた白紙が口を開けるだろう。
最高の一日が終わろうとしている。
