レコーディングスタジオに初めて山下くんと一緒に入ったのは、荒井由実『ミスリム』(1974年)が最初だったかと思います。山下くんは当時から「本当に音楽しかないんだな」という人でした。好きな音楽がとてもはっきりしていて、そこに向かって突き進む人。
シュガー・ベイブでも山下くんがバンドリーダーとしてみんなを率先してました。とにかくあの頃は、私たちは同世代のミュージシャンで集い合っていた。私も渋谷のジァン・ジァンとか本当に小さなスペースでライブをしてましたね。ステージ上での山下くんはリーダーとして、ちょっとワンマンな感じ(笑)。
でも、威張ってるとかじゃなくて、頭の中で鳴ってる音楽を歌とギターで表現したいというその一心を感じてました。
覚えてるのは、当時彼が着ていたジージャンの背中に「THE RASCALS」ってロゴが描いてあったこと。たぶん自分で描いていたんでしょう。私もラスカルズが大好きで、それが大きな共通点でした。
いまだに私にとっては「ラスカルズの山下くん」なんです。私のライブアルバム『東京は夜の7時』(1)でも、「コーラスといったら山下くんで」という感じでお願いしました。あのステージは記憶に残るものだし、今ちゃんとレコードで聴けてよかったですね。
1.『東京は夜の7時』
シングル「あしたこそ、あなた」(2)での山下くんのコーラスは、私から「アソシエイションみたいにしたい」とお願いしました。アソシエイションも山下くんと私の大好きなバンドで、その大好き具合が同じくらいなんです。「ア」って言ったら、もう何をやったらいいのかすぐわかる感じ。
2.「あしたこそ、あなた」
そういう関係ですから、信頼してやってもらいました。コーラスを彼が多重録音している間に「勝手にやってて。私ちょっとご飯食べてくるから」って、全部おまかせ(笑)。
結果、私が思っていたイメージに合致しただけでなく、それ以上のことをやってくれた。「GREENFIELDS」(アルバム『オーエス オーエス』収録、84年)でのコーラスも本当に感謝してます。あのコーラスも完全にアソシエイションでしたね。あれがあって、あの曲は完成したんです。
レコーディングやライブで自分の希望を伝えるとき、「私の頭の中にこんな音楽が鳴ってるんだけど、脳で移すからさ、同じことをやってくれる?」とお願いすれば、山下くんにはまったく同じものが見える。音楽で同じ風景を同時に見られるということで言えば、彼は大変貴重な仲間です。
情けなさを表現する歌詞に本当に感情移入できる。
私が山下くんの「スプリンクラー」をカバーしたのはアルバム『SUPER FOLK SONG』(3)。シングル盤であの曲を送ってもらって聴いたとき「いいなあ、これ」って思ったから。いい曲だなと思うと自分でやりたくなるんですよ。
3.『SUPER FOLK SONG』
山下くんの中には「情けない男」的なところがあるんだと思うんです。もう一曲私がカバーした「PAPER DOLL」(アルバム『Home Girl Journey』収録、2000年)だって、超情けない曲ですよね(笑)。その情けなさを、山下くんは自分の歌詞で表現できる。そこがいいんです。
あの2曲で山下くんが書いた情けない気持ちを私は書いたことはないけど、自分が本当に感情移入できるので、それを歌いたいと思って曲を選びました。
シンガーとしての山下くんは、音程に対して非常にきちんとしている。ちゃんとその歌を届けることに対して責任を負っている、そういう歌手だと思います。今も新作を出して、ツアーやライブを続けていることは、もちろん気になります。かつての同志ですからね。とにかく元気でいてほしいし、自分の作りたいものを作り続けてほしいという気持ちです。
最近、うちの娘(坂本美雨)が山下くんと会ったらしく、「お母さんどうしてんの?」って聞かれたそうなんです。「バレエやったり、水泳やったり、頑張ってますよ」と答えたら「え!あんなに運動オンチだったのに!」って言われたって(笑)。
昔は私、本当に運動オンチで有名でしたから。でも、たしか山下くんも運動はそんなに得意じゃなかったはずですよ。
私のデビュー直後くらいに雑誌の『ヤング・ギター』(76年11月号)で対談したことがあるんです。その日のことは、なぜかお互いが着てた服までよく覚えています。「ファンクラブは絶対に作りたくない」「文化祭にも絶対に出たくない」とか2人で言ってましたね。
2人とも生意気盛りでした。結局、山下くんも私もファンクラブを作りましたけど(笑)。また今、対談する機会があったら?やっぱりラスカルズとアソシエイションの話で盛り上がるんじゃないですか?(笑)