映画には2回完成する瞬間がある
奥山大史
高崎さんとは以前、カフェで映画『ぼくのお日さま』の届け方についてお話しさせてもらいました。それがすごく楽しくて。
高崎卓馬
気づいたらかなり長い時間が経っていましたよね。
奥山
あのお話があったから、普通と違うことをしたいなと思って、撮りおろしでマナー予告を作ってみたり、インスタライブをやってみたり、いろいろ工夫するようになりました。伝えること、届け切ることも映画を作ることの一部なんだなと。
高崎
映画が完成する瞬間って、2回訪れると思うんです。1回目は、編集を終えたとき。もう一回は、観てくれた人それぞれの人生の棚にしまってもらえたとき。だから「2回映画を作る」という意識はとても大切です。届き方も映画の一部だと思っています。
奥山
まず「いいものができました!」って自信を持って言えるように作ることが、一つのゴールですよね。その上で興行収入や動員数などの数字を目指すのはもちろん、多くの人に「届いた」という実感が必要になる。これって、すごく難しいことだと感じているのですが、『PERFECT DAYS』は、どのように届けていったんですか?
高崎
今までの経験とスキルは惜しみなく、という姿勢でやりました。ただそれと同じ量の慎重さを自分に課していました。この映画を観てみようと思ってもらうための情報って、同時にノイズでもあるので。
たとえば僕が広告の仕事をしていることがバイアスになったりする。映画にのめり込んでいた学生時代の自分だったら、宣伝の強い映画は警戒していましたし。観てもらいたいけど、「観てね」と言えばそうなるわけじゃない。そのあたりは本当に丁寧にやりました。自分だったらどう思うかという視点しか頼りにならないんですけど。渋谷のジャックとか、海外での評判とか、音楽イベントとか、いろいろやりました。BRUTUSでは、『#MY PERFECT DAYS 〜10人が語る特別な日常〜』という企画のなかでいろんな感想を自由に語っていただいたり。
でも、ヴィム・ヴェンダース監督と、役所広司さんが真ん中にいてくださったからそうできたんです。僕がどうのなんて関係のないくらい「映画」の人たちなので、僕はそこにできるだけ光を集めたという感じかもしれません。
奥山
僕自身は、『ぼくのお日さま』の宣伝について取材を受けることがかなり多いんです。それがノイズになっていないか少し気掛かりで。高崎さんの肌感覚として、話題性や切り口など、どのように見えていますか?
高崎
奥山大史監督の世界デビューを同時代に見られる幸せが、僕らにはありますよ。
次回作で出会う人が、振り返って『ぼくのお日さま』を観るのと、最初からファンとして伴走できるのでは違いますから。同時代の作家の成長を、その時代の空気のなかで味わえるのは間違いなく歓びです。
だから、映画作家・奥山大史の存在が、この映画を観るべき動機として強く伝わるのはいいことだと思います。奥山君が何を見て、何を感じて、何とぶつかっているのか。この映画が生まれた背景を含めて感じてもらう。そこがポイントのような気がします。
奥山
自分自身ではそれが本当にいいのかどうか、わからないんですよね……。
高崎
映画は監督の人生の足跡。作品に対して俯瞰して語れる人が表に出ることは、健全だと思いますよ。
重要なのは“商品”ではなく“作品”
奥山
映画を届ける上での、映画祭の役目についても伺いたいです。
高崎
たとえばハリウッドのような、制作費も興行収入も高く見積もられた映画は、元から商品として存在しています。売ること、売れることが、成り立ちに組み込まれている。だから自立してビジネスが成立している。
でもそうじゃない映画のほうが挑戦者であり、映画の裾野を広げる開拓者になる。だから重要なのは“商品”ではなく“作品”なんだと思います。映画祭に行くと「ここは作品を商品に転換する場所なんだ」と痛感します。“商品”はまったく受け入れられない。求められるのはまだ値札のついていない“作品”でした。
作品とは、監督の人生をかけた足跡のことだと思います。それをみんなが認めて、価値をつくっていく。みんなで映画という文化を保つための装置というか。もちろんそこに歪んだ思想の人も入り込んでいると思うけど、本質的にはそうだと思います。
奥山
トロント国際映画祭での上映が決まった途端、アメリカの会社が北米配給権を買ってくれました。カンヌでもそういう空気を感じましたね。映画祭と配給会社、映画産業そのものが交わり合いながら、市場自体がつくられていくというか。特定の映画祭で上映されるということに、一種の商品価値がつくというのはこの数ヶ月で実感してきたことです。
高崎
それはつまり次回作も認めてくれていることになるので、作り手としては羨ましいことですよね。
奥山
間を置かずに次回作を考えた方がいいんですかね。
高崎
企画だけは走らせていた方が。だって映画祭に来ている監督って、「自分はこういう企画があるんですよ」ってその場で関係者にプレゼンするくらいですからね。
奥山
たしかに。企画書を持ち歩いてる人もいましたね。
「誰もまだ言葉にしてないものを映すのが映画だ」
奥山
たとえば洗剤のCMを作るとして、洗剤の役割や機能、その必要性を誰もが知っていて、その上でもっと広く、新しく伝えていく。でも、映画の場合は誰もその価値を知らない状況から始まります。
明確な機能があったり、便利なわけでもないし、内容を十分に説明できるわけでもない。映画を観てもらうために広告することって、本当に難しいなって。
高崎
考え方が全く違いますよね。広告は1000人が見たら1000人がだいたい同じように理解できるものでなければいけない。映画は1000人に1000通りの答えがあるほうがいい。そのほうが豊かなもので、そのほうが時間も場所も超えていく。
だから映画にはもしかしたらそれぞれへの問いかけが自然に発生するのかもしれません。そういえば「誰もまだ言葉にしてないものを映すのが映画だ」って、ヴェンダースも話していました。
奥山
いい言葉ですね。
高崎
ヴェンダースに「脚本ってどう書くの?」って聞いたら、商業ベースのときは脚本も企画書も作るけれど、それ通りには絶対撮らないよ、と言っていました。事前に手がける資料は、あくまで資金を調達するときの手段。映画作りをスタートするためには様々な関係者に頷いてもらう必要があるから、そのために資料を作る。
でも、船が出航したらもう俺のものだ、って(笑)。脚本で書けていたら、もうその文章でいいですよね。言葉では書けないものを映像にして、それを編集して、映画を作る。それが理由だと思います。たぶん奥山くんの映画の作り方は今の話に通じるものがある気がします。なんとなくですが。
奥山
同じです、と胸を張って言うのは気が引けるのですが(笑)、『ぼくのお日さま』は脚本に余白を持たせて、ドキュメンタリーに近い手法で撮りました。その分編集にかなり長い時間をかけましたね。
高崎
無闇に曖昧にしたり、ルーズに作れば多様な解釈が生まれるというわけじゃないですよね。僕は、CM制作に長く携わる中で身についた感覚を一度洗い流して『PERFECT DAYS』に向き合ってきたようなところがあります(笑)。
奥山
そうだったんですね。逆に、広告制作の中で身についた技術や思考が、映画制作にどのように役立ったかも教えてください。
高崎
編集のとき、ヴェンダースと一緒に通して観て、気になるところをお互いに話し合いながら詰めていったのですが、修正したいポイントがほとんど同じだったんです。そういう意味では、映像制作の技術や感覚については多くの共通点があると思いました。
奥山
高崎さんのCMは、映画のような演出が取り入れられていますよね。
高崎
よくそう言われます。あんまり自覚はないのですが。強いていえば広告は外に向かっていて、映画は中に向かっているのかなあ。作るときの感覚ですが。
脚本を書いているとき、「なんであのときあんなこと言っちゃったんだろう」みたいな、今までの自分の人生の小さな後悔とかそういうものをたくさん思い出しました。たぶん内側に向かったエネルギーがそういうものを揺り起こしたんだと思います。
広告でも、やっぱりどこか人間を描きたいと思う気持ちはずっとあります。人間って変で面白くて弱くて愛おしいものだから。
奥山
表現を突き詰めると、人間の多面性に行き着く感覚があります。そして、そういう不確かなものを描いて届けようとすると、商品を広告するときのように流暢には伝えられない。
映画を宣伝・広告するということは、伝わらないことを伝わり切らないまま、その上で人の心に引っかかるように提示する必要がある。それって不思議な行為だし、難しいなと思います。
高崎
シビアですよね。映画を伝えるということは、「広告」が最も試される瞬間と言えるのかもしれません。