Visit

リトアニアに残る、戦争を生き延びた人たちの記録。“スギハラハウス”で数奇な物語に出会う

「東洋のシンドラー」と称される、杉原千畝の記念館を訪ねた。リトアニアでは知らない人はいないという杉原が暮らした家には、戦争を生き延びた人たちの記録が集められていた。

photo: Yayoi Arimoto / text: Toshiya Muraoka

杉原千畝は、1939年にリトアニアの古都であるカナウスの日本領事館領事代理に任命された外交官だ。

ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が徐々に激しくなっていった1940年、ヨーロッパから日本を経由してアメリカなどに逃れる避難民がいた。当時、外務大臣からは、日本通過ビザの発給は、「避難先の国の入国許可を得ていること」や「避難先の国までの旅費を持っていること」などの条件が各外交官に通達されていた。リトアニアには隣国ポーランドから疎開したユダヤ人が多く暮らし、その資格を持たない人々も含めて、日本領事館に押し寄せたという。

杉原は独自の判断で通過ビザを発給し続けた。1940年の夏、数カ月の間に、杉原は2000以上の日本通過ビザを発給し、6000人以上の命を救ったと言われている。

杉原千畝の業績、オランダ領事との協働

杉原千畝記念館は、建物こそ当時のままだが、杉原が実際に使っていた家具や設えは残されていない。唯一、日本国旗だけが当時のまま残されていて、よく見れば綻びを補修した跡があった。再現された杉原の部屋の他には、オランダ領事の部屋がある。その机に飾られた写真の人物の一人はヤン・ズワルテンダイクというオランダ領事で、ユダヤ人たちの脱出ルートとして「オランダ領キュラソー島への入域はビザを必要としない」という許可証を発行した人物だった。そのカリブ海に浮かぶキュラソー島への渡航を根拠として、杉原は日本の通過ビザを発給したという。杉原だけではなく、命を尊ぶ外交官たちの連携によって多くのユダヤ人が救われていた。

生き延びた人々、それぞれの物語

記念館で何よりも胸を打つのは、80数年前にこの建物へと殺到した人々が、その後いかにして生き延びたのか、という展示だ。「Refugee Route from Japan」と題された世界地図には、アメリカだけではなく、オーストラリアや南アフリカにまで矢印が伸びている。祖国を離れて、新しい土地で暮らす。『メカスの難民日記』から始まった旅は、杉原千畝記念館で、再び難民たちの物語へと引き込まれてしまう。

例えば、三つ編みをした少女の写真と共に、こんなエピソードが記されていた。

ワルシャワで生まれ、ポーランドで暮らしていた少女が、祖母の住むリトアニアへと疎開し、オランダ領事館でキュラソー・ビザを、日本領事館で通過ビザを得て、モスクワからシベリア鉄道に乗る。ウラジオストクまで12日間の旅の途中、小さな駅の構内で唯一買うことができたのは熱湯だけだった。日本に到着して、病気のための発疹をスカーフで隠しながら係官の聴取を受け、ようやく神戸のホテルで眠った夜に「贅沢」を感じたという。

戦争に翻弄された人生が、杉原千畝記念館にはいくつも展示されていて、その物語の数々に圧倒されてしまう。人生はかくも多様で、生きていることの不思議に満ちている。杉原が人道のために独自の判断でビザを発給した。その事実に最大限の敬意を抱くと共に、リトアニアから“幸運にも”旅立つことのできた人々の数奇な運命に思いを馳せる。国とは?国籍とは?杉原が日本人であるために、翻って、その問いが私たちに突きつけられる。

多くの人々がビザの発給を求めて列を成したという“スギハラハウス”の門の前に立つと、門柱には日本語で『希望の門、命のヴィザ』と書かれていた。そして街路に面して、日の丸、リトアニア国旗と共に、ウクライナ国旗が掲げられていた。

おそらくは杉原がカウナスに暮らしていた頃から植えられていたリンゴの木には、たくさんの実がついていた。