井上貴子
馴染みのない方が多いかもしれませんが、北インド古典音楽(*1)というのはシタールなどの弦楽器とタブラのような打楽器をメインとした、長時間即興的に演奏されるものなんです。神秘的でスピリチュアルな音色と、繰り返し耳を刺激するリズムを心地よく感じて、聴きながら思わずウトウトしてしまう人もいるでしょうね。
U-zhaan
僕は現地で北インド古典音楽のコンサートを数え切れないくらい観ていますが、鑑賞中につい眠りこんでしまった回数も数え切れないです。インドにはオールナイトのライブが多いんですよ。真夜中にゆったりしたリズムの曲が始まったりすると眠気との闘いになります。どんなに素晴らしい演奏が繰り広げられていても否応なしにまぶたが落ちてくるんです。そして、それがまた気持ちよくて。寝ていたからといって怒られるようなことはないですね。積極的に推奨されているわけでもないですが。
井上
ニキル・バネルジー(*2)という伝説的なシタール奏者が、80年代後半、亡くなる直前にデリーで開催した公演を観ました。こんなチャンスはめったにないと思って行ったんですが、彼がラーガ(*3)を即興演奏しているうちに爆睡してしまいました(笑)。さらに、彼のシタールのソロが終わるとタブラの伴奏が入るんですが、まずはゆったりとしたテンポのヴィランビット(*4)と呼ばれるパートが同じ調子で長く続くので眠りが深まり、気づいたら1時間半ほど経っていました。
U-zhaan
でも、すごく聴きたかった演奏で寝落ちするなんて、いちばん贅沢な経験じゃないですか。僕も、うまい人の演奏を聴いていて、とてつもなく眠くなることはあります。あと、意外と最後に演奏が猛烈に速くなるジャーラーのパートに入ってきたところで、気絶するように眠りに落ちることもある。
井上
そうなんだ。私はいつもそこで目を覚ますけど(笑)。
U-zhaan
ただ、インド音楽が瞑想的だったり、眠くなると思われている大きな理由の一つは、ターンプーラー(*5)の音色なんですよね。大半の人はシタールの音と思い違ったりしてますけど、微妙に違う。
井上
ターンプーラー特有の、あのビヨーンと細かく震えるような音には、人を落ち着かせて眠りに誘う成分が多いかな。自然界に存在する波や川の音と共通するものがあると思います。楽器の駒と弦の間に糸を挟んで、よく響くよう調整するんです。
U-zhaan
インド音楽全体がチルアウトなわけではないんです。本来はかなり練り込まれた構成だし、細部は技巧的だったり数学的だったりする。眠りに誘うようなゆったりとしたテンポの音楽だけでもない。でも、一般的な印象としてそういう部分が大きいですよね。CDやレコードで聴いても、北インドの古典音楽って始まりがゆったりしてる。数十分後、曲の最後にBPMが500を超える熱狂の状態になるとは誰も思ってないじゃないですか。
ヒンドゥーの神々もまどろむ夜の音楽
井上
インド音楽では、神に捧げるために作られた音楽って割と多いんですが、ヒンドゥー教的な思想では神と人間の住む世界の間のハードルが低いと私は思ってるんです。ラーガには、朝に神様を起こし夜は神様を眠りに誘うとか、春や雨期のラーガというように、時間や季節、感情などが反映されています。人間の営みと同じような音を、神様も聴いて過ごしているというわけです。なので、一日や季節のスケジュールに合わせて音楽が演奏されることがある。だからといって、実際に眠れる効果があるかは別の話ですが(笑)。
U-zhaan
そうですね。あと、眠りとどう関係しているかわからないですが……ライブの現場で、僕がタブラで入る前に主奏者が40分くらい一人で演奏するアーラープというパートがあるんですけど、それを聴きながら眠りそうになったことは、若い頃に何度もありましたね。
井上
私も若い頃の方がよく寝ました。でもインド音楽を学んでいくと、演奏家の意図や表現方法を分析的な耳で聴くようになるから、だんだん眠くならなくなっていく……。
U-zhaan
なるほど。僕もいろいろ分析したりして技巧的な部分への興味が深まっていく一方ですが、それでもやっぱり聴いていて眠くなる“何か”があるんですよね。でももし、聴いていると眠くなる音楽と、どんどん覚醒する音楽の2つしかなかったら、僕は「眠くなる音楽」の方が好きですね。