筒美京平先生からはヒット作りの
コツをたくさん教わりました
世界に類を見ない日本独自のポップアートとして昭和歌謡を磨き上げたのは才能豊かな編曲家たちだった。そして船山基紀氏こそは、その代表格である。
歌謡曲の編曲の仕事ってつまり、歌手が歌うメロディ以外のすべての音を作ることです。イントロやアウトロ、間奏部分はもちろん、コーラスまで全部。
作曲家が作ったメロディを基に、どこでどういう楽器を使い、どんなアンサンブルを組み立てるかを考え、トータルな立体図としてのスコアを書いて録音スタジオでプレーヤーたちに渡すまでが仕事です。
普通は1曲を1日で、短い時は数時間で仕上げます。現在は、すべての音をコンピューターだけで作れるようになり、スタジオでの生演奏の録音も減りましたが。
僕が受け取る素材は、メロディ譜と歌詞だけのこともあれば、作曲家が作ったデモテープが追加されることもある。
最初は作曲家によるギターやピアノの弾き語りのデモテープだったけど、70年代終盤になるとリズムボックスが加わり、さらに80年代半ばには打ち込みも使うようになった。今はデモテープの段階で、ほとんど完成版に近いところまで作られてきます。
僕が編曲家になったのは、ポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)の応募曲の編曲要員としてヤマハ音楽振興会でアルバイトし始めたのがきっかけでした。
早稲田大学のハイソサエティ・オーケストラでサックスを吹いていた20歳頃です。
当時のヤマハには萩田光雄さんや林哲司さん、佐藤健さん、大橋純子さんなど、後に編曲家や作曲家、シンガーとして活躍していく同世代の仲間が大勢おり、多くのことを学びました。
ただ、編曲に関してはほとんど独学なんです。僕はもっぱらジャズばかりやっていたし、歌謡曲には疎かったので、トランペットの音をどう重ねればカッコいいかとか、そういうことを工夫するのが編曲の仕事だと思っていたんです。
歌のメロディに肉づけするなんて考えたこともなかった。誰かが手とり足とり教えてくれるわけでもなく、見よう見まねで実地訓練を重ねながら学んでいった感じです。
特に勉強になったのが、先輩の萩田さんが仕事の後机の上に放置していた編曲スコアを読むことでした。
まあ、寿司屋の丁稚が親方の仕事を盗み見ながら技を身につけていく職人の世界みたいなものですね。
ヤマハ時代の70年代前半に編曲した楽曲の9割以上はポプコンの審査員に聴かせるだけで世には出なかったけど、あの修業時代がその後の僕の土台になったのは間違いない。
その後、本格的に歌謡曲の仕事をやり始めたわけですが、プロとしてキャリアを積んでいくうえで最も大きかったのは、やはり、筒美京平先生との出会いですね。
1976年、太田裕美さんの作品で初めて声をかけていただいて以来、僕は筒美作品の編曲を最も多く担当しましたが、京平先生からはヒット作りのコツをたくさん教わりました。イントロの大切さとか、隙間なく音を埋めていく手法とか。
でも僕は、京平先生や萩田さんのように正攻法で美しくまとめるのは苦手で、派手な音作りが好きでした。「勝手にしやがれ」や「迷い道」のような。
「萩田君は僕がイメージしていた通りのアレンジをしてくれるけど、船山君は僕が恥ずかしいと思うようなアレンジも平気でやってくれる」と京平先生からは言われましたが、僕はそれを“ほめ言葉”だったと受け取っています。
機械では作れない
“人間業としての音楽”
を信じたい。
編曲家のギャラは、印税制の作詞家や作曲家とは違い、1曲ごとの買い取りなんです。記憶が曖昧ですが、最初の頃は1曲5,000とか1万ぐらいだったと思います。
それが時代とともに徐々に上がっていきました。編曲家としての最初の大ヒット曲だった沢田研二「勝手にしやがれ」の頃は3万か4万だったんじゃないかな。
「勝手にしやがれ」はイントロが評判になったけど、あの部分はもともと作曲者の大野克夫さんのデモテープに入っていたんです。だから僕は、そのイントロのメロディをうまく使って楽曲全体をロックぽく派手に展開するのが自分の仕事だと思ったんです。
自分自身で特に満足している曲といえば、まずは五輪真弓「恋人よ」かな。これは最初は「枯葉」という仮タイトルだったので、なんとなくスメタナ「モルダウ」のメロディが浮かび、一気に書けました。
もともとはB面曲の予定で、ディレクターから好きにやっていいと言われたので、あんなに長いイントロをつけちゃったんですが。
あとは、少年隊「仮面舞踏会」や田原俊彦「ハッとして!Good」。そしてやっぱり、渡辺真知子「迷い道」ですね。「勝手にしやがれ」同様、この曲のピアノも羽田健太郎ですが、彼のようなずば抜けた技術とセンスを持つプレーヤーとの出会いも重要でした。
あまりの忙しさに疲れ果て、僕は82年にロサンゼルスへ移住し、2年ほど充電生活を送りました。
帰国時に高額で買ったフェアライトCMI(世界初のサンプリング/シーケンサー機能付きシンセサイザー)は使いこなせるまで四苦八苦したけど、その後の仕事の幅を広げるのに大いに役立ちました。
アイドルものやユーロビート系のWinkなど、90年代前半までは使いまくりましたね。あの時、思い切ってフェアライトを買わなかったら、時代の音をつかみ取ることはできなかっただろうし、今の僕はなかったんじゃないかな。
90年代以降のコンピューターや電子楽器を使った音作りには、聴いたことのない音の面白さがある半面、機械的な音の味気なさもあり、それはほとんど一体だと思います。
機械では作家の能力、機械の能力の範囲でしか音を作れないけど、ミスがなく、作家の個性も100%反映される。
それに対し、生演奏の場合、作家の限界点を突破し、さらに上まで伸びる場合がある。プラスαというかハプニングというか。
僕も近年はずっとコンピューターを使ってきましたが、だからこそ、生の人間と一緒に作る音楽の可能性に今改めて期待しているんです。人間業じゃないとできないものがやはりあると思うから。