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昭和歌謡の作り手、プロデューサー・飯田久彦にインタビュー。阿久悠さんに教えてもらった“歌作りは人々の『飢え』をつかむこと”

熱気溢るる昭和の歌謡曲界には、そのエネルギーに引き寄せられるように多くの才能が集結した。編曲、コーラス、プロデューサー……作る、歌う、育てる。あのキラキラした世界を支えた、作り手たちの物語。

photo: Eri Morikawa / text: Shinya Matsuyama

阿久悠さんに
“歌作りは人々の『飢え』をつかむこと”と
教えられました

音楽プロデューサーの飯田久彦さんは、1960年代初頭に「ルイジアナ・ママ」という大ヒット曲を放った元歌手。
70年代に制作側に回り、レコード会社のディレクターとして、松崎しげる、岩崎宏美、ピンク・レディーなどを担当、80年代には小泉今日子を発掘した。

当時の話を聞きたいというと、「あの頃は、何でもありの時代でしたから」と目を細めた。

歌作りにおいて、僕が大事にしていたことは2つ。まず、アーティストの個性を見極めること。どんな声質でどんなキャラクターの人間なのか、それを研究して曲を作る。
これは自分が歌っていた経験から来ているものでね。歌手だった頃、僕の個性とはまったく関係なく「次はこの曲を歌ってくれ」と決められていたんです。

そこにものすごく違和感があってね。僕がディレクターなら歌い手のことを考え、その人に合った楽曲を考えるのになって。もう一つは、時代とキャッチボールをすること。これは作詞家の阿久悠さんに言われたんです。

「歌作りは飢餓感をキャッチすることから始まるんだ」と。今は何が欠如していて、何が求められているのか。音楽ファンや一般の人たちが潜在的に抱いている「飢え」を鋭敏につかみ、それを3分4分のドラマにするのだと。ピンク・レディーはまさしくそれが合致したプロジェクトでしたね。

僕はもともとザ・ピーナッツのような、歌って踊れるデュオを作りたいと思っていたんです。
で、『スター誕生!』にあの2人が出てきたとき、彼女たちならできるなと。それで、詞は阿久悠さん、曲は都倉俊一さんにお願いして。お2人に言いました。

「今ないもの、面白いものを作りたいんです」と。そしてデビュー曲の「ペッパー警部」が出来上がった。すると、上司に「ゲテモノだ!」とこき下ろされましてね(笑)。
でも、総論賛成ではなく賛否両論がいいと僕は思ってた。その方が話題になりますからね。しかし、小さな子供たちまで熱狂するとは思ってなかったですけどね(笑)。

プロデューサー・飯田久彦
綾小路きみまろ、大泉逸郎「孫」をヒットさせたのも飯田さんだ。幅広い!

筒美京平さん、都倉俊一さん、阿久悠さん。作詞・作曲の先生方からは学ぶことばっかりでした。
京平さんとは岩崎宏美のレコーディングで1ヵ月ロスへ行ったりしましたし、阿久さんともピンク・レディー以外でもたくさんご一緒して。

阿久さんはね、詞ができたら「直接手渡ししたい」っていつも言うんです。「反応を見たいから」って。そして、「ファクスで送るのは便利だけど、それでは自分の温度が伝わらないから」と。

僕の理想は、先に詞があって、そこから曲が出来上がること。もちろん、曲もアレンジもすごく大事です。でも、やっぱり、歌は言葉なんです。特に、歌い出し。

最初の4小節の言葉に食いついてくるんです。「♪ペッパ〜警部!」とか「UFO!」とかね。「え、なんなんだろう?」と関心を引くじゃないですか。そこは徹底しましたね。阿久さんにも「出だしは印象的な言葉で始めてください」とよくお願いしましたから。

論語に「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」という言葉があってね。
「物事の知識があるのは素晴らしいけれど、それを好きで楽しんでいる人にはかなわない」という意味なんですが、まさしくこの仕事ってそうなんです。

僕も、関わった曲がすべて売れたわけじゃないし、売れなかった曲もたくさんある。
でもね、好きで楽しんでやっていればヒットの確率は上がるはず。だって、自分が感動しなければ、人を感動させることはできませんからね。