デザイナーと聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのはファッションデザイナーだろう。ジョルジオ・アルマーニや川久保玲といった名前は、洋服にそれほど興味のない人でも知っている。
また隈研吾や安藤忠雄といった建築デザイナーの名前が代表作とともに報道されることも珍しくないし、自動車を好きな人にはジウジアーロのようなカーデザイナーも身近な存在かもしれない。一方でスポーツシューズのデザイナーというと、よほどのスニーカーフリークでないと名前を挙げることは難しいのではないだろうか。
業界で最も有名とされるのは、何といってもナイキのティンカー・ハットフィールドだろう。それでも知る人はどれだけいるだろうか?手がけたプロダクトを聞けばピンとくるはずだ。「エア マックス1」や「エアハラチ」、そして「エア ジョーダン」シリーズの第3弾以降の多くのモデルを担当した人物である。
大学では建築を学び1981年にナイキに入社。85年よりデザイナーとして数々のシューズのデザインを手がけたが、奇しくも80年代後期よりスポーツシューズ業界における高機能化、ハイテク化に拍車がかかり、彼の才能がいかんなく発揮されることになる。
例えば自動車のデザイナーなら、基本的にボディをデザインするだけなので、ピニンファリーナのような外注のデザイン会社を起用することも珍しくないが、スポーツシューズのデザイナーはエンジニアと連携が第一だ。
各社が誇る最新テクノロジーを考慮し、足を包むアッパー部分、衝撃を吸収するミッドソール部分、そして路面をグリップするアウトソールをデザインしなければならない。そこには機密情報も数多く含まれるので、自ずと社内デザイナーが活躍することになる。
今回の主役はティンカーほどではないが、スポーツシューズのデザイナーとして知名度の高いもう一人の人物、スティーヴン・スミスだ。デビュー後25年が経過しても新しさを失わない、リーボックの「インスタポンプフューリー」をデザインしたその人だ。
ティンカーがナイキ一筋で活躍してきたのとは対照的に、いくつものブランドに在籍し、数々の名作を誕生させてきた彼の経歴は面白い。ちょっと長くなるが詳細を追ってみよう。
「マサチューセッツ芸術大学ではプロダクトデザイン、インダストリアルデザインを専攻し、卒業後にニューバランスにデザイナーとして入社しました。当時デザイナーはケヴィン・ブラウンと自分だけでしたね。彼はバスケットボールシューズとテニスシューズ、自分はランニングシューズをはじめとしたその他のカテゴリーを担当し『574』『995』『996』『997』『1500』といったモデルをデザインしました」
スポーツシューズデザイナーとしての華麗な経歴は、新卒で入社後数年で、その片鱗を現す。
「その後、アメリカ市場においてパフォーマンスシューズを強化しようとしていたアディダスに誘われて転職。バスケットボールシューズの『アーティラリー』や『ファントム2』をデザインしました。しかし、事務所が閉鎖されることとなり、ニューバランス時代の同僚で開発担当のスティーヴ・バリスに誘われて、次にリーボックに移ります。そこで、初代『ザ・ポンプ』の開発を担当したポール・リッチフィールド、ピーター・フォーリー、そしてスティーヴとともにリーボック・アドバンスド・コンセプトという最先端のテクノロジーを開発するチームに所属しました。ここで『インスタポンプフューリー』『DMX RUN10』をはじめとした数々の新機軸を誕生させたんです」
リーボックでも成功を収めたのちに、フィラでもイノベーションを担当したスティーヴン。だが、またしても不幸が襲いかかる。
「ここでもポートランドオフィスを閉鎖することになったんです。そこで、さらなる高みを求めてナイキへ移りました。『エア ズーム ケージ スピリドン』『エア ズーム ストリーク スペクトラム』『ショックス モンスター』『エアマックス2009』といったシューズのデザインを担当。特に『サンレイ アジャストサンダル』は数百万足を販売する記録的なヒットとなりました。そのほかにも『クリブ メリージェーン シュー』という幼児靴もヒット作の一つ。愛娘が生まれた頃の、思い出深い一足です。もちろん、大失敗モデルもあります。マーケティング主導で依頼された『シャンクタスティック』というモデルなどは、インターネット検索しても見つからないくらいマイナーに終わりました」
まだまだ終わらない。その後はアディダスアメリカに移籍し、ウェアラブル スポーツエレクトロニクスのチームに。その後、キーンに移ってアドバンスドイノベーションチームのイノベーションディレクターを務め、現在はカニエ・ウェストのYEEZYのプロジェクトに参画している。
デザインプロセスは
ブランドによって異なる。
彼の基本的な仕事のあり方について、まだまだ聞きたいことがある。それは、デザイナーとして自らのアイデアを会社に提案できるのか?ということ。マーケティングや営業チームなど、会社やマーケットからの要望を具現化するケースも多いのではないだろうか。数々の会社を渡り歩いた人間ならではの答えが興味深い。
「ブランドによって異なりますが、ナイキの場合はマーケティング、デザイン、開発と協力してクリエイトしたものを会社に提案するパターンですね。一方、リーボックの『インスタポンプフューリー』のときは退屈な会議のときに描いていたスケッチが出発点となっていて、斬新なデザインやカラーコンビネーションが当初はマーケティングや営業チームからは受け入れられず、ボツになりかけたんです。でも、当時のCEO(最高経営責任者)ポール・ファイヤマンが味方してくれたおかげで、製品化に漕ぎ着けました。ニューバランスはまた全然違いますよ。会社から“こんなランニングシューズをデザインしてくれ!”といった依頼やブリーフィングを受けてプロダクトをデザインすることが多かったんですよ。ただし『997』や『1500』は、新素材や新たなテクノロジーを活用しながら前モデルからいかに機能性をアップするかということを開発スタッフだったスティーヴ・バリスと議論を何度も重ねた末に誕生しているので、どちらかというとデザイナーや開発部門が発信したプロダクトといえるかもしれませんね」
そもそもスティーヴンが仕事を始めた当初は、シーズンとかブリーフィングという概念がなかった時代。“そろそろ古くなってきたし、新しい素材も登場するからモデルチェンジさせるか?”といったノリで、今と比べるとずいぶんとのんびりしていた時代だったそう。
「デザイン画だって、リーボック時代は、ラフスケッチを含めると膨大な数を描きましたが、ナイキ時代はせいぜい1シーズンに3~4足のデザインのみを担当する程度。1人のデザイナーが任されるシューズの数もブランドによって大きく異なるんですよ。余談ですが、2002年に手描きからPCに移行しましたが、また2016年に手描きに戻したんですよ。今はiPadとApple Pencilの組み合わせ。自分には手描きの方がしっくりくるんですよね」
年齢的にもこの業界ではかなりベテランの域に入る。彼が切り開いてきた領域は大きいが、同時代にもリスペクトできる存在がいたからこそ成し得たのかもしれない。
「それまでもスポーツブランドでシューズをデザインする人間はいましたが、ただ靴の絵を描くだけだったんです。ブランドが持つテクノロジーや人間工学を踏まえてデザインするようになったのはナイキのティンカー・ハットフィールドや自分が最初の世代だと思いますよ。年齢は彼の方が12歳上ですが、お互いにスポーツブランドでデザインを行うようになったのは80年代の中頃のことですね」
与えられた環境で
最良を目指すのみ!
なのかは、世の中に名作として残る彼の作品を見るだけでも明らかだ。しかし、ニューバランスの「997」からリーボックの「インスタポンプフューリー」まで、コンサバティブなデザインから、革新的なモデルまで、その振れ幅の大きさについて、本人の口から語ってもらうべきだろう。
「そのときに与えられたツールとブランドのDNA、すなわちそのときの自分が置かれた環境を最大限に活用して、ひたすら最良のプロダクトを作るのが私たちの仕事なんです。今見ると、『997』と『インスタポンプフューリー』のデザインテイストは両極端の位置にあるのかもしれませんが、どちらのプロダクトも、その時代において最も革新的な機能を有したシューズをクリエイトしようとしてデザインしました。その点はスポーツシューズのデザインを始めたときから一貫しています」
私事だが、筆者がリーボックジャパンに勤務していた1994年当時、「インスタポンプフューリー」のファーストサンプルを手にしたときのことを今も覚えている。
「カッコいいシューズだなぁ。でもこの良さをわかるのは一部の人だけだし、どちらかいうと短命に終わるプロダクトだろう……」という予想は、いい意味で裏切られた。ルックスもテクノロジーも斬新なスニーカーを作った本人が、一番驚いたのかもしれない。
「まったく考えられないことでしたよ。当時、『インスタポンプフューリー』をデザインした際に、その斬新すぎるデザインとカラーリングが原因で、マーケティングチームや営業チームと数えきれないくらいバトルしました。でも、25年の時を経て、このシューズが売れ続けているということは、自分が間違っていなかったということを証明してくれています。あのときに妥協することなく、信念を曲げなくて本当によかったと思います。当時の自分を褒めてあげたいです。だからこそ、こうして日本にも来ることができ、昔から大好きな『BRUTUS』にも登場することができたわけだし」と語り、満面の笑みを見せた。