日本の骨董蒐集文化を考えるうえで欠かせないのが「青山学院」の存在である。といっても、あの有名私大のことではない。昭和初期、青山二郎という稀代の“目利き”を中心に、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、宇野千代、永井龍男ら錚々たる文士たちが出入りした一種の芸術サロンのことだ。青山の肩書としてはひとまず「装釘家(そうていか)」というものが挙げられるが、陶器鑑賞家、批評家、画家でもある才人、「何者でもない」自由人だった。そして、その「青山学院」に通い詰める生徒たちの多くが、彼に倣って骨董をいじくった。
大地主の息子として東京・麻布に生まれた青山は何と中学生にして古美術に目覚め、骨董商に出入りしていたという。16、17歳にして古美術の名店・繭山龍泉堂で疵物(きずもの)の宋釣窯(そうきんよう)の水盤を購入し、その目の確かさに「天才青年の出現」と関係者を驚かせる。20代には柳宗悦(やなぎ むねよし)らと初期の民藝運動を支えたほか、26歳の頃には鑑識眼を買われ、実業家・横川民輔(よこがわ たみすけ)の中国陶磁コレクション図録『甌香譜(おうこうふ)』の編集者に抜擢される。また柳に刺激を受けて李朝の陶磁にのめり込み、自ら朝鮮で買い付けて「李朝ブーム」の火つけ役ともなった。
「青山学院」とは唐津のぐい呑みを片手に酒を飲んでは激しく議論する場であり、鑑賞眼、審美眼を磨く道場でもあった。中でも親友だった批評家・小林秀雄は青山の影響を受けて骨董に目覚め、眼力を競い合う仲間になる。そして戦後、この2人の間に割り込んできた“最後の生徒”が白洲正子であった。青山に出会ってすぐ「弟子入り」した白洲はしかし、厳しい「教育」を受ける。日本橋の壺中居(こちゅうきょ)で紅志野(くれないしの)の香炉を見て一目惚れし、生まれて初めての骨董を月賦で購入した白洲は、その包みの絹布に「コレヲ持ツモノニ呪イアレ」の字を発見するが、実はこれは青山の筆によるものだった。その香炉は戦前に青山が購入し、宇野千代らの手を経て白洲の元へ来たものだったのだ。香炉を青山に見せると、歯牙にもかけず無視された。あきらめない白洲はその後も青山に自分の買ったものを見せ続けるが、「何だこんなもの、夢二じゃないか(竹久夢二の描く夢見がちな少女のような感性)」とけなされた。不肖の扱いを受けた愛弟子ではあったが、白洲の思い切りの良さを師は認め、「韋駄天」のあだ名を授けた。
「美なんていうのは、狐憑(つ)きみたいなものだ。空中をふわふわ浮いている夢にすぎない。ただ、美しいものがあるだけだ」。そう嘯(うそぶ)いた青山は一つのものを何年も持つことはなく、とらわれることなく純粋な目で自在に新たな美を発見していった。単に陶器の真贋を見分ける「鑑定家」にあらず、終生、ものの中にある美を誰よりも厳しい目で見抜いた求道者の鋭い眼力は、その死後30年以上が経つ今も、日本の骨董界に影響を与え続けている。