Learn

随筆家・白洲正子の長女・牧山桂子さんが教えてくれた、 白洲正子の子育て

随筆家・白洲正子の、ちょっと、いや、かなりオリジナルでスーパーな子育て術、教えます。

illustration: Yuko Saeki / text: Kosuke Ide

母は子育てなんてまったく無縁でしたよ。本当に放ったらかしで。直接的に教えられたようなことは何もありません。これを話すと皆さん「嘘みたい」っておっしゃるんですけれど、要するに、家族全員一人ずつというか、たまたま一緒に住んでいるだけ、という感じなんですよ。

家族って、1人ずつが○だとしたら、親子でその円が重なっている部分があって、それがぴったり重なっていたり、少しだけしか重なっていなかったり、それぞれの家庭で重なり具合が違うわけですよね。その意味では、ウチはかなり離れている方だったと思います。

例えば、家族の誰かの誕生日とかに、パーティしたり写真を撮ったりとか、ありますよね。そういうのはまったくない。七五三だって、まるでなし。ウチではずっとそれが当たり前でしたし、「そういうもんだ」と思っていました。

ただ、現象的なこと、例えば「他人がやったことでガタガタ騒ぐな」とか、「くちゃくちゃ音立てて食うな」とか「畳の上では座っておじぎしろ」とかいったことはもちろん教わったというか、むしろ口うるさいところはありました。けれども、いわゆる「教育」なんてものはなかった。ほとんど怒られたこともないですし。向こうも怖くて怒れなかったんじゃないですかね、たぶん。放っておくだけ放っておいたのは、母もよくわかっていましたから。

どうしても欲しいものは
絶対に譲ってはいけない

だけど、こういうこともありました。子どもの頃、終戦後に進駐軍のアメリカ人将校の家でクリスマスパーティがあって、子どもたちにプレゼントが配られたんですが、私がもらった可愛いお人形を、その場にいた白人の少女にすごまれて、彼女が受け取ったネコだかブタだかの人形と無理やり交換させられてしまったんです。

私は悲しくて、家に帰ってからその顛末を母に話したところ、母は慰めてくれるどころか烈火のごとく怒って、「そんなに大事なものならなぜ手放したのか。自分がどうしても欲しいものは、絶対譲ってはいけない」と言い放ちました。そういう「自己主張しろ」という類いのことは何度も言われましたね。

お母さんがやりたいならいいよ
と思えるようになった

母に対する反発は、ありました。母の趣味なんかも嫌だったですね。私は神社仏閣などに行くのは大嫌いで。ときどき、京都に一緒に行ったりしましたけれど。でもあの人、すぐにどっかに行っちゃうんですよ。取材だなんだと言ってね。「どことどこを見てこい」だとか言い残して、自分はすぐにどこかに消えちゃう。そういうのも、子どもとしては面白くないですよね。

とにかく母は「我が身だけが可愛い」人で。母にとっては、私だってすぐに競争相手になっちゃう。「私の方がうまくできる」とか、娘と張り合うようなところがありました。家族でよく麻雀をしたんですが、母は諦めるってことを知らないんです。どんな手を使ってもすぐあがる。とにかく勝ちたいのね。本当に可愛くないんですよ。そんな母だったから、普通の子どもみたいに、お母さんに何か相談するとかいうことはなくて、中学生くらいからは、何でも一人でやってきたような気がします。

ずいぶん早くから、母親が自分の子どもみたいになっちゃった。「もうお母さんがやりたいならいいよ、いいよ」って。母は増長する一方ですよ。でも、まあしょうがないかって思えるようになった。「憎めない」というのとはまた違って、憎らしいんですけど(笑)。

だけど、最近思うんですけれども、やっぱり大人になって年もとりますとね、何というか、考え方だか何かを教わったような気がしてくるんですね。不思議なもので。うるさく言わなかったけれど、結局なんだか親の檻の中に入っているのね。間違ったことがあっても、親が「そういうものじゃないよ」って態度でいるだけで、子どもはそういうふうになる。

逆に、故意に子どもをどうこうするというのは、できないという気がします。だから、親があんまりひどいことしなければ、子どももしないんですよね。要するに、親ってそういうことだけだと思いますね。

随筆家、評論家・白洲正子
白洲正子(しらす・まさこ)/1910年東京生まれ。日本の古典・芸能・工芸の研究家。14歳で米国留学、28年帰国。翌年、白洲次郎と結婚。青山二郎、小林秀雄らと交流し、骨董を愛する。『かくれ里』(講談社)、『能面』ほか著書多数。1998年没。