Talk

Talk

語る

深津さくらの実話怪異手帖:第四回「うしろ」

怪談師・深津さくらが、自ら蒐集した実話の怪談を綴る。前回の「悪意」を読む

text: Sakura Fukatsu

連載一覧へ

第四回「うしろ」

東伊豆にある温泉旅館だった。真夜中過ぎまで彼氏と晩酌を楽しんだYさんは、部屋についている掛け流しの露天風呂に入るためテラスへ出た。かすかな灯りを頼りに熱い温泉にゆっくりと体を沈めると、海から気持ちのいい風が吹いてきた。風呂の縁に片肘をついてぼうっと真っ暗な海を眺めていると、背後でからからと戸を引く音がした。

気配がこちらにやってきて、人ひとり分の湯が湯船からあふれ出た。Yさんは、ひと足遅れて露天風呂にやってきた彼氏に「気持ちいいねえ」と声をかけた。ところが、少しも返事がない。「ねえ。ねえって」小さな苛立ちを覚えて振り返った。

そこには、がりがりに痩せた知らない背中があった。長い髪がびっしょりと垂れ、うなだれたままじっと動かない。どれほどの時間それを凝視していただろうか。とうとうと流れる湯の音で我に返ったYさんは、びしょ濡れのまま部屋に駆け込み、座布団を枕にして眠っていた彼氏を激しく揺さぶった。

「女の人なんているわけないって。大丈夫?」。露天風呂から戻った彼氏は呆れ気味にそう言った。けれど、Yさんはもう外へ目をやることはできなかった。「蛾が一匹、浮いてるだけだったよ」

連載一覧へ