第一回「交差」
一人暮らしを始めても、家に帰るとつい「ただいま」と言ってしまうのがMさんの癖だった。都内のワンルームに帰り着いたのは真夜中で、いつも通り「ただいま」と一人つぶやき、コンビニで買ってきた夜食をテーブルに広げた。黙々と食事をしていると、冷え冷えとした玄関扉の先から気配がする。
コツコツ、とヒールのような靴音がマンションの共用廊下に響いているのだ。夜中には珍しいその音は段々近づき、自分の部屋の前までやってきてふと止まった。そして、ガチャと聞き慣れた金属音がした。鍵が開けられた、と気がついた次の瞬間「ただいま」と小柄な女性が一歩入ってきた。
目が合ったその顔は、Mさん自身だった。二人のMさんはしばし言葉もなく見つめ合う。やがて、玄関のMさんはおもむろに外へ身を引っ込め、どこかへ行ってしまった。幼いころMさんは、両親に「父と母どちらと一緒に住むか選んでほしい」と言われた。
そしてMさんは母と二人で関東で暮らし、父は一人、故郷の関西へ去ってしまった。真夜中に帰ってきたもう一人の自分の「ただいま」は関西訛りだった。
あれは父と暮らす道を選んだ自分だったのではないか、とMさんは考えている。