案内人・白武ときお
ゲスト・木村剛史
「面白いか?」が唯一のルール。名作『トリビアの泉』の作り方にゼロ年代のテレビの在り方を見る
白武ときお
『トリビアの泉』【A】はゼロ年代を代表するテレビバラエティの一つ。番組内のコーナー「トリビアの種」【B】では、ビルにペッタン人形を転がしたり、検証のためだけに武道館を借りたり。テレビにしかできない面白さがありました。
木村剛史
いつも仕込みが大変でした。ペッタン人形をくっつけられるガラス張りのビルを求めて、ようやく仙台でロケができたり、拳銃とどちらが強いか検証するために日本刀を半年かけて作ってもらったり。スタッフは多いときで50人ほど。みなさんに支えてもらいましたね。
武道館を借りたのは、納豆の糸が何m伸びるか検証したのが最初でした。単純に必要に迫られてのことで、そのスケール感を売りにするつもりは当初はありませんでした。おかげさまで評判が良く、以来、定番パターンの一つになったんです。
白武
番組の企画を出すときや、実際に制作するなかで、なにか制限はありましたか?納豆のために武道館を借り切るほどなので、制作費用は潤沢にありそうですが。
木村
制限というと、「どう面白くするか」だけ。いいか悪いかは別として、コンプライアンスも労務の縛りも緩かった。企画を出したのは2002年でした。「月深」【C】という深夜枠の番組のために、ペラ1の企画書をたくさん書いたんです。そのなかで上司からOKが出たのが後の『トリビアの泉』。
はじめは『へえ15(ジュウゴ)』というタイトルで、無駄な知識を紹介し、直後にビートルズの「ヘイ・ジュード」が流れるという企画で(笑)。
白武
深夜でスタートして、すぐにゴールデンで放送されるようになりますよね。初回から視聴率20%超えでいかに支持されていたかがわかります。
木村
とはいえ制作は常に自転車操業で、ずっと編集所にこもる日々でした。「やるなら全部面白くなきゃ!」の意気で。スタートした当時はまだ5、6年目ということもあり、笑いの緩急をつけるということも知らない未熟者でしたね。
「フランシスコ・ザビエルの肖像画のヒゲの間に点を描いて逆さまにすると、ペンギンっぽくなる」というトリビアがあったんですが、これは面白いのか?とスタッフ間で喧嘩に発展したのはいい思い出です(笑)。
白武
具体的にどのように制作されていたんですか?
木村
まずは毎週束のように寄せていただく視聴者投稿を精査して、取り上げるトリビアを決定。どんなVTRにするか考えます。内容はもちろん、テロップに載せるワードやBGMなど、どうすれば面白くなるかをひたすら考える。
「18782(いやなやつ)+18782(いやなやつ)=37564(みなごろし)」というトリビアを紹介するときには、当時話題の映画『キル・ビル』の曲を流そう、といったように。トリビア自体の文言や、ナレーションでの読み方も指定していました。それが週に6本ほどでひと番組になります。
「どうでもいいことで笑うこと」「画(え)で見て面白いこと」は意識していました。例えば「小便少女もいる」というトリビアなら、映像にすると驚きがある。
白武
はじめにトリビアを紹介して、その後に検証VTRを流すというスタイルは、トリビアの文言がオチのようですがフリにもなっているんですね
木村
「一青窈(ひととよう)さんの『もらい泣き』の再生速度を遅くすると平井堅さんが歌っているように聞こえる」というトリビアも、VTRに興味を持ってもらえるだろうと。これは私もびっくりしました(笑)。『トリビアの泉』を始めた頃「雑学番組はなかなか難しいよ」とおっしゃっていた先輩に、後で褒められたのは嬉しかったですね。
白武
『トリビアの泉』の後もバラエティ番組に携わり続ける木村さんですが、ゼロ年代を振り返ってテレビバラエティにどのような変化があったと思われますか?
木村
過渡期だったと思います。フジテレビでは、『めちゃ×2イケてるッ!』や『SMAP×SMAP』などスターを軸に作り育っていく番組がいわば花形でありつつ、情報バラエティやリアリティ番組などが登場し人気も得ていった。多様化が始まった頃ですね。
白武
失礼ですが10年代に入るとフジテレビらしいお祭り的な花形番組が徐々に減っていった印象で。僕がこの仕事を始めた頃に、ゼロ年代に親しんだ番組が終了していったのでよく覚えているんです。そのきっかけの一つに東日本大震災があると思うのですが、いかがですか?
木村
確かにそうかもしれません。暗いニュースが続き、ACのCMが流れるなか、制作側にも「笑わせることばかり考えていてもいいのか?」と悩む人もいました。視聴者側も同じだと思います。ゼロ年代は制作にとっては金銭面をはじめ制限は少なく、多様な番組が生まれる土壌があった。
一方の視聴者にも笑いを楽しむ余裕があったのでしょう。ただ、現在はテレビの人間がテレビ以外でも活躍できる時代。自身の世界観を持つ、個性的な作り手はより求められているように感じます。