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米津玄師にAdo、YOASOBIも?新たなムーブメント「令和歌謡」をスージー鈴木が解説 〜前編〜

歌謡曲は今、すぐそばにあるのかもしれない。1989年頃「Jポップ」という言葉が生まれ、音楽は歌謡からポップスへ。しかし、2015年以降「令和歌謡」と呼ぶべき音楽がどんどん生まれてきている。

text: Suzie Suzuki

「令和歌謡」の誕生。

今、「令和歌謡」とでも言うべき、新しいムーブメントが生まれている。その類義語は「昭和歌謡」であり、「Jポップ」の時代を経て懐かしくも新しい音楽たちが続々と生まれている。

つまり、平成時代を席捲した「Jポップ」がいよいよ一巡し、次に現れてきたヒット曲群が、「昭和歌謡」の特徴を取り込みながらアップデートされた音楽になっていると感じるのだ。
長調から短調へ、歌詞は元気系から陰鬱な印象のものへ。曲の長さは5分以上から3分程度へ。デジタルから「生」な音へ。

例えば、2018年における邦楽シーンのMVP的存在=米津玄師の「Lemon」を聴いて、その短調の響きや陰鬱な歌詞には、安全地帯の楽曲、例えば「ワインレッドの心」の雰囲気に近いものを感じた。

そのとき私が抱いた、米津玄師と安全地帯に共通する感覚を具体的に表せば「80年代の錦糸町のスナックで聞こえてきても不自然ではない音、むしろ似合う音」。では、その「令和歌謡」はどのように生まれてきたのか。

短調と陰鬱な歌詞。

ここで「短調」という言葉を、改めて説明しておく。短調(マイナー)は暗い曲調、対する長調(メジャー)は明るい曲調のことを指す。

菅原洋一「今日でお別れ」、五木ひろし「夜空」、布施明「シクラメンのかほり」、都はるみ「北の宿から」、沢田研二「勝手にしやがれ」、ピンク・レディー「UFO」、ジュディ・オング「魅せられて」。

ここに挙げたのはすべて、「昭和歌謡」の「ピーク・ディケイド」ともいえる70年代に、日本レコード大賞を受賞した曲なのだが、すべて短調の楽曲である。
具体的には、テレビやラジオからいまだによく聞こえてくる「魅せられて」のイントロ。あの強く迫ってくる暗い響き、あれこそがまさに短調の響きだ。

さらには、これら受賞曲の歌詞も、その多くがセンチメンタルでメランコリック。宇宙人が登場する「UFO」は例外として、基本、すべての歌詞が、フラれ・別れ・悲しみを主体としている。

誤解を恐れずに言えば、「昭和歌謡」全体が「錦糸町のスナックで湿っぽく飲みながら聴く音楽」だった。米津玄師の前に、安全地帯があり、安全地帯の前に「昭和歌謡」があったということだ。

そんな状況が一変するのは90年代、「Jポップ」の誕生である。思い出してみると、当時の「メガヒット」が長調だったことに気づかれるだろう。

ここでも一つだけ例を挙げれば、「Jポップ」誕生の号砲のような曲=KAN「愛は勝つ」。あの堂々たる曲調、朗々たるイントロこそ、まさに長調の響きだ。

そして歌詞も「がんばろう」「負けないで」「明日はある」的なポジティブなものが増えてくる。時はバブル経済からバブル崩壊へ。それでも「がんばろう」と、平成のサラリーマンが新橋のカラオケボックスで、ネクタイを鉢巻きにして集団で熱唱する音楽である「Jポップ」の象徴的な消費シーンを、私はこう思い浮かべる。

それでも、カラオケボックス大騒ぎ時代の合間に、「令和歌謡」の足音が少しずつ、ひたひたと忍び寄ってきていた。

例えばスピッツ「ロビンソン」。長調か短調かはっきりしないコード進行に、とてもセンチメンタルな歌詞が乗っている。今考えると、あの曲が「令和歌謡」への導火線だったと考えることもできる。
また宇多田ヒカルのヒット曲における泣いているような歌い方にも、歌謡曲的なものを感じる。

そして2015年以降、米津玄師やKing Gnuなど、短調で陰鬱な曲がのしてきた。
その背景には、「がんばろう」的「Jポップ」からの反動もあるだろうが、加えて、バブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災、そしてコロナ禍と、復活への出鼻が、図ったかのように定期的にくじかれ続けた「失われた30年」の影響も極めて大きい。

さすがにもう「カラ元気」の時代ではないのだろう。短調・陰鬱な「歌謡曲」が令和に求められる時代背景は十分にある。

メディアの変化と「短尺化」。

少し視点を変えて、メディアの話をしたい。後述するが、CDからサブスクに移行したことは、音楽そのものにも、大きな変化をもたらしている。
その代表が「短尺化」だ。曲全体の尺(長さ)がコンパクトになってきているのだ。

CDの時代は「長尺」の時代。どうせ同じ値段なのだからと、長い曲の方がお買い得に感じられ、だからイントロからして「長尺」で、また、カラオケボックスで、そんな「長尺」の曲を朗々と歌うのが誇らしかった時代。

しかし、2015年以降に一気にその需要を伸ばしたサブスクによって時代は「短尺」となりつつある。無意識的に「軽く聴き流す」ことに適したメディアにおいては、いろんな曲が次々と、とめどなく流れることが好ましい。

また、サブスクでは、数十秒聴かれるごとに再生回数がカウントされ、ロイヤリティ収入が生まれることも「短尺化」を後押ししているかもしれない。さらには曲の冒頭でスキップされないよう、イントロも極力短くする。

結果、平成という時代を1周回って、2~3分台の尺が中心だった「昭和歌謡」の世界に戻ってきたのだ。そして今、「令和歌謡」として、サブスクから短い曲が次々と流れ出てくるのである。

「令和歌謡」を楽しもう。

このページに掲載した様々な曲の様々なMV。一見、一貫性はない。「最新Jポップ」としてひとくくりに捉える音楽メディアも多いのではないか。

でも、これらの曲に共通する、短調で陰鬱な歌詞、コンパクトな尺、さらには米津玄師やYOASOBIによる歌謡曲的に人懐っこいメロディ、King Gnuや藤井風による圧倒的生演奏、AimerやAdoの生声・生歌の力に没入すると、脳内に「令和歌謡」の4文字が浮かび上がってくることだろう。

一言で言えば、サブスクからの音楽洪水の中で際立ち、聴き手の胸ぐら、いや耳をつかんで離さない音楽が「令和歌謡」だ。進んで耳を差し出した方がいい。