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米津玄師にAdo、YOASOBIも?新たなムーブメント「令和歌謡」をスージー鈴木が解説 〜後編〜

歌謡曲は今、すぐそばにあるのかもしれない。1989年頃「Jポップ」という言葉が生まれ、音楽は歌謡からポップスへ。しかし、2015年以降「令和歌謡」と呼ぶべき音楽がどんどん生まれてきている。

text: Suzie Suzuki

令和歌謡のBIG4

歌謡曲性を出しながらも、アップデートし続ける令和を代表するアーティスト4組。

令和歌謡の象徴としての米津玄師

私の考える「令和歌謡」の代表的存在が米津玄師だ。言い換えると「Jポップ」という看板が似つかわしくない代表。

キーは短調で歌詞もメランコリック。加えて癖になるメロディが特徴で、特に歌い出し。例えば「Lemon」の「♪夢ならば」など、聴き手の頭からこびりついて離れない。

ボーカロイドに、思いのままに自作曲を歌わせる「ボカロP」出身ということが影響しているのだろう。「米津メランコリー」が音の端々・隅々にまで行き渡っているところも特徴。「カラ元気」が売りだった平成Jポップの対極にある音世界だ。

「Lemon」の「♪夢ならば」、「感電」の「♪逃げ出したい」。あの歌い出しこそ「令和歌謡」なのである。

米津玄師「Lemon」CDジャケット
「Lemon」

「新しさ」と「古さ」を感じるYOASOBI

コロナ禍の音楽シーンを席捲しているのがYOASOBI。
デジタルなサウンドに乗って、幾田りらが、ボーカロイドのように的確な音程で機械的なメロディを歌い切る。昭和には決してあり得なかった音世界だ。

しかし私が注目するのは彼らが多用するコード進行である。少々専門的になるが(キーをCとして)「F→G→Em→Am」的な進行をとにかく多用する。
これは、荒井由実「卒業写真」あたりを源流とするもので、長調・短調のはっきりしないセンチメンタルな響きを持つ、日本人がこよなく愛する進行。

言わばYOASOBIサウンドには、令和的な見てくれの中に昭和な内面がある。この戦略的な構造を保持する限り、彼らの人気は長く続いていくだろう。

YOASOBI「たぶん」PV
「たぶん」

アナログの「地肩」の強さが見えるKing Gnu

最近のNHK紅白歌合戦は、生演奏や生歌がめっきり減った。そんな中、2019年紅白におけるKing Gnu「白日」の生歌+生演奏にはシビれた。ここ数年の紅白におけるベストバウトだ。

彼らの演奏はうまいが、それ以上に「強い」。テクニックだけでなくパワーも感じさせる。
野球で言えば、七色の変化球が操れるだけでなく、剛速球を投げられるという感じ。それも1日200球を超えるほどに。つまり、「地肩」が強い。 

思えば「昭和歌謡」の時代は、生歌+生演奏が当たり前だった。歌手も演奏家も「地肩」で勝負していた。平成の間に十分休めた肩を駆使して、King Gnuが今、剛速球を連投している。彼らの辞書に「疲労」という文字はない。

King Gnu「白日」PV
「白日」提供:(株)ソニー・ミュージックレーベルズ

「歌謡曲的歌唱力」の時代を巻き起こすAdo

「歌謡曲」とは「ちあきなおみ『喝采』を頂点とする一連の大衆音楽」だと考えている。
昨年、「うっせぇわ」で一気に知られることとなったAdoには、「令和のちあきなおみ」になれる可能性を感じる。

爆発的な声量に、様々な声質を操れるテクニック。前者は「会いたくて」、後者は「踊」で、その片鱗を見せつけている。

特に「会いたくて」の、表現力に富んだボーカルには、今後の音楽シーンを大きく変革する可能性が埋め込まれている。「うっせぇわ」「踊」の印象だけで彼女を捉えるのは、実にもったいないことだ。
ニューアルバムが出たこのタイミングで、Adoのボーカルに耳を傾け、そして今すぐ喝采するべきだろう。

Ado「踊」PV
「踊」

音楽界を席捲する“令和歌謡現象”

なぜ、令和のアーティストは歌謡曲らしさを持つのか。その理由となる3つの現象を探る。

「軽く聴き流す歌謡」とサブスクの関係。

サブスクの浸透は、音楽に対するリスナーの態度を変化させた。

CDをいちいちトレーに載せて、曲を傾聴する時代から、イヤホンからとめどなく流れ続ける曲を聴き流す時代へ。「軽く聴き流す時代」の到来。そんな時代には、そんな時代に合った音作りが求められる。
Awesome City Clubやyamaのヒットは、曲のテーマとは別に、軽く聴き流せる気持ちのいい耳心地が貢献したと考える。

言い換えればそれらは、Mr.Children「終わりなき旅」のような、まさに「終わりなき」7分超えの熱唱=「軽く聴き流せない」Jポップの対極にあると感じるのだ。

「軽く聴き流す歌謡」。それは昭和のラジオや街角からふと聞こえてきた沢田研二や山口百恵のヒット曲のあり方と、どこかつながるものがある。

「SNS歌謡祭」への素材性。

「SNS歌謡祭」とは造語である。元ネタはもちろん「FNS歌謡祭」。新しい音楽家や曲が、SNS発で次々と世に出ていく「祭り」状態を指す。

代表は瑛人「香水」だろうが、星野源「うちで踊ろう」や、DISH//の「猫」、さらには和田アキ子の「YONA YONA DANCE」なども、「祭り」の主人公だ。

ヒットのポイントは「素材性」。SNSという空間で歌われ・踊られるための「間口の広い素材」となること。その具体例が「うちで踊ろう」だ。シンプルで短い「うちで踊ろう」は「素材」にすぎず、その結果、いろんな人々が「素材」をアレンジして楽しんだ。

いわば「素材性」が次の時代の「歌謡性」となっていく。リスナー同士が、SNSで「民主的」にヒットを生んでいく「SNS歌謡祭」は、これからの音楽シーンを、根本的に変え始めている。

「3分歌謡」の時代へ。

昭和歌謡の多くは3分台だった。それは主に、ドーナツ盤の容量的問題(尺の長い曲を無理やり収録すると音が悪くなる)を受けたものだったが、当時全盛だったテレビやラジオの音楽番組にとっても適切な尺だった。

平成/CD時代となって、容量的問題が解消、尺は一気に長くなり、5分台・6分台が当たり前に。「カラオケで歌い上げたい需要」とも相まって、3分程度では物足りなくなったのだ。

そしてサブスク時代。曲の尺がまた短くなってきた。スマホで「ながら聴き」されるサブスクでは、長尺曲は退屈だ、短尺曲がくるくる変わる方が気持ちいい、という心理が働いていると考える。

世界を席捲したBTS「Dynamite」を含む以下3曲はすべて、スマホで3分台を示している。
それは世界に広がる「3分歌謡」の未来を示している。