1970年に生まれた村田さんは、京都を拠点に、“普通で、いいもの”という、生活に根ざすうつわづくりを一心に続けてきた。村田さんの薪窯で焼いた一見いびつなようにも見える形のうつわには、素朴な魅力が宿っている。韓国・務安(ムアン)に窯を構えた川喜田半泥子(はんでいし)(1878〜1963)や、高麗のうつわに影響を受け、現在は韓国での制作にも力を注ぐ。
京都に〈鈴華窯〉を構える鈴木智尋さんが、28歳という若き村田さんに弟子入りしたのは、1999年のこと。村田さんが問屋に卸す大量の食器をつくっていた時代だ。京都の大学では焼き物のオブジェを制作していた鈴木さんだが、卒業後に村田さんがロクロを挽く姿に出会い、すぐに「うつわをつくろう」と意を固めたという。それほど師匠の作陶に没頭する姿は強烈だった。鈴木さんは当時をこう振り返る。
「めちゃくちゃ忙しかったですよ。僕の仕事は主に、タタラ(板状にした石や粘土でつくる方法)で板皿をつくる、釉薬をかける、窯詰めをする。その3つの作業だけで一日が終わっていく。ほとんど会話はなく“こうや、こうや”と師匠が釉薬の濃度やかけ方を見せてくれる。二度は聞けない!と必死で覚えました。そのあいだ師匠はひたすらロクロ挽き。その後ろ姿が目に焼き付いているんです。かっこええなあ、と」
ロクロ挽きは作陶の基本作業。正確性も大事だが、速いこともまた然り。鈴木さんはその理由を「一つの美術品をつくるより、数をこなした方がいいものができる。同じものを何十個もつくって、力強くていいなと思えるのはそのうち3つくらいだから」と話す。独立後、村田さんの技を反芻(はんすう)しながら練習するうちに、そう感じるようになった。
一方、栃木県足利市に工房を持つ柳川謙治さんは、2009年から3年間、村田さんのもとで修業を積んだ。朝9時から作業を開始、仕事が片づいた夜に師匠の陶房に居残り自分の練習をする毎日。初めは見よう見まねでロクロを挽いた。
「師匠は驚くほどすべての作業が速かった。焼き上がるまでの工程が頭の中で計算されているんだと思います。時間をムダにせず作陶にだけ集中できるように。ロクロ挽きはとにかく数をこなして手に感覚を叩き込みました。いきなり斬新なものをつくろうとしてもダメ。未完成でウソくさいんです。基本がしっかり身についていることの大切さを独立してから痛感しました」
実用性を意識して、先人から学ぶこと
師匠は常々「人が使いやすいものを意識する」ように言っていたという。「流行に左右されず、生活道具としてのうつわをつくるという、師匠の姿勢はブレることがなかった」と柳川さん。だが、その“使いやすい”が難しい。人の手は大きさも違えば、食卓の風景も家庭によって様々だ。柳川さんいわく「茶碗を何度も手に持って、収まり具合を確かめます。百均の商品だってバカにできません」。
鈴木さんは「例えば、取り皿は小さすぎても大きすぎても使いにくい。飲食店で使うことを想像したりして、どんな人にも“ちょうどいい”サイズを模索します。重ねやすいこともポイント」と語る。
作陶をする中でとりわけ村田さんが大事にしていたのが、陶芸の世界で重要とされる“写し”だ。つくり手がうつわを模倣することで、先人の技法や意思を追体験するとともに、古典の時代的背景を現代において解釈し直す作業である。先人たちへの尊敬の念を込め、一部だけではなく徹底的に写すことが師匠の流儀。その上で、テストを繰り返し自分なりの解釈と独自の形を模索する。
柳川さんは「骨董品を写すことが多いけれど、同じようにつくっているようでも自分の感性が表れると思います。染め付けは、布や本からヒントを得たりもする。今は、自分の特徴は何かと意識するよりも、伝統的な方法をしっかりとやっていきたいと思っています」と話す。
さらに鈴木さんは「師匠のうつわには、意図しているかどうかわからない絶妙な“歪み”がある」という。
「まったく同じものをつくるのではなく、“写し”から自分ならではの形を追究しています。サイズや釉薬のかけ方も“こっちの方が使いやすそう”と思えば変えてしまう。そこから発見があるんですよね。師匠から“ええやん”と言われるには、まだまだですが(笑)」
そんな鈴木さん、村田さんが窯に火入れをする際には、今でも手伝いに行くことがある。
「師匠が“一緒に何か焼いたら?”と声をかけてくれるんです。師匠の陶芸にかける姿は本当に迫力があって、これが芸術を生むパワーなんだといつも目の当たりにさせられます」
陶芸の歴史と基本の技を背景に、追い詰められるほどの数をこなし、初めてうつわに作家の魅力が宿る。“普通で、いいもの”の奥は深い。
村田森のもとで一流が育つ理由
■ 二度聞き禁止の空気感。
■ ロクロはとにかく数を打て。
■ “先人リスペクト”を心がける。