ゲニウスロキの気配を探す:朱喜哲「バザールとクラブの哲学」Vol.7

お店って不思議だ。誰しもがふらりと立ち寄れる“公共的”な場でありながら、ひとたび足を踏み入れると、店主こだわりの“私的”な魅力も溢れている。「公共的なもの/私的なもの」がないまぜとなって、自宅とも公共施設とも異なる空間を醸成する。「お店とはなにか」。哲学者・朱喜哲が綴る、身近で重要な問題について。

text & photo: JU Heechul

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その街に「ゲニウスロキがいる」とは、どういうことか

さいきん仕事が増えて、いろんな街に行くことも増えた。

もともと出張がそれなりにある仕事ではあったし、そもそも引っ越しが多い育ちだったので、新しい街を訪れるのは慣れたことではある。毎回、少しばかりの緊張感とそれをずっと上回る期待感、そしてほんのちょっとだけ寂寥感がある。

最後の、いくばくかの寂しさは、そもそも自分自身がどこかの土地に根をはっているという感覚をもったことがないからだろう。どこにいても、そこが「自分の場所」だと心から感じたことはない。だから、どの街でもそこに根づいているようなひと、そしてお店や建造物には魅力と、わずかばかりの羨望を感じる。自分にもそんな人生はありえたのだろうか、と。

いや、「羨望」とまでいうと嘘かもしれない。それはたぶん、ただのないものねだりだ。土地に深く根ざした暮らしというのは、どれほど人生を捧げても一代で得られることではないのだろう。それでもよいと思えるような街と出会い、関係性をはぐくむことに憧れはあるけれど、おそらく自分にはできない。

「ゲニウス・ロキ」ということばがある。

ラテン語で「土地の霊(地霊)」という意味で、ゲニウス(Genius)はジーニアス、「天才」と同じ語源なので、まさにその対象に備わった(努力によって得たのではない)天性の力、なんらかの霊性のこと。ロキ(Loci)はロケーションの語源だから、まぁ「場所」のことだ。組み合わせて、「その場所、その土地に宿る霊的ななにか」というニュアンスになる。

いまでは、建築や空間論の用語として「土地の雰囲気」とか「土地柄」みたいなものを指して使われている。わたしもたぶんそういう文脈から見知ったことばだ。用例として、たとえば歴史や文化が感じられ、それが景観とも調和した街並みを指して、「ゲニウスロキの気配がある」と言ったりする。

また逆に、真新しい再開発地域やニュータウン、大型商業施設など、人工的過ぎて、土地の息吹やその地に積み重ねられた歴史の存在が感じられないとき、「ゲニウスロキがいない」と言ったりもする。この表現自体は知らなかったとしても、ある場所を指して「いる/いない」の判断については、けっこうなひとが一致するんじゃないかと思う。

角が立つので具体的な地名は避けるが、やはり出張をしていて、とくに首都圏の郊外に広がるショッピングモールとオフィス街とタワーマンションが駅に直結しているような街並みを見ると、後者の感想が浮かぶ。ゲニウスロキの気配が感じられない、と。便利なんだろうけど、惹かれない街だなと。いや、その地にずっと住んでいて、丹念に見ればきっとなにか見つかるのだろうけど、仕事で来る旅客ごときにそれを感じるのはむずかしい、ということかもしれない。

真新しい街が好きだというひとも、きっといるのだろう。ただ、わたし自身はゲニウスロキの気配がある街やお店を、好ましく感じる。古い建築物が残っていたり、寺社仏閣があったりする街並みは、やはりその地の歴史に思いを馳せさせる。地名を見ては、昔は海だったんだろうかとか、その由来を考えるのも楽しい。

たとえかつての新興住宅街であっても、ゲニウスロキの気配は見出せる。たとえば1962年から入居がはじまった大阪北部の千里ニュータウンは、わたしがその近隣に住んだ2000年代後半には、もうすでに独自のゲニウスロキの気配のようなものがあった。モノレールの車窓から見える万博公園にそびえる「太陽の塔」の姿は古びても威厳を失わず、かつて夢見られた未来の果てのようなものを体現していた。そんな夢の残滓が、しかし虚しいのでもなく、どこかあたたかく地霊のように漂うエリアだ。

芦屋の〈The Clapham Inn(ザ・クラッパム イン)〉。芦屋は誰が行ってもきっとすぐゲニウスロキの気配を感じるエリア。同店にはさらにかつてのロンドン・イーストエンドの気配まである。

ゲニウスロキの気配が強いというのは、よいことばかりではない。

街に歴史があるということは、さまざまな因縁や恩讐が渦巻いているということでもある。土地の「格」みたいな序列意識や、そこで「下」と見られた場所や住人への穢れ意識のような一朝一夕にはめばえないものが、そこでは形成されがちだ。

だから歴史があって、街の隅々まで深く「意味」がはりめぐらされているというのは、息苦しいことでもある。それはよそから来た者はすぐにはわからないから、歴史ある街はほとんどの場合、新参者に厳しい。そうした街にはあんまり「余白」がない。よそ者がスッと入り込めるような、空間的あるいは意味的にまっさらなところが、ないのだ。

だから、わたしはゲニウスロキの気配を探すし、また愛してもいるけれど、その気配が濃密だとちょっと、いや、けっこうたじろいでしまう。街の「文脈」とか「意味」が強そうな歴史ある街には、その格式やブランド感よりも、それが必然的にともなうことになる序列の下位になにが置かれているのだろうと、思いをめぐらせてしまう。

そう思うと、それらの「文脈」や「意味」ごと街をいっきょに破壊してしまい、ゲニウスロキの気配を断ち切るような「再開発」も、そこに生きていたひとたちが望み、その先も居場所が確保されているのであれば、一概に批判されるべきことでもないのかもしれない。

西日本、とりわけ関西は歴史が深いので、そういうことにもよく出くわす。もとは曰くがあるとされていて、仄暗いイメージがあるため地元のひとたちや企業は進出を避けるようなエリアに、交通上の利便性とそれに比しての地価の安さに目をつけた東京や外国の資本がやってきて、大規模な再開発がおこなわれる光景も、何度も目にした。それはしかし住民こそが望んでいる場合もあり、外から全否定することはむずかしい。

前橋の〈呑龍横丁〉。はじめて訪問してもそこに息づくゲニウスロキの気配が感じられる呑み屋街。

趣のあるお店に惹かれる。その裏に潜む、無自覚な身勝手さ

こういう資本流入と再開発を、都市の「ジェントリフィケーション(富裕化/階層浄化)」と呼んだりする。この表現を使う時点で、それは資本に対しての不信と批判的なニュアンスがある。街に息づいたゲニウスロキの気配を、巨大資本が力ずくで消し去ってしまう暴力なのだと。

その批判の趣旨はわかるし、わたしもゲニウスロキの気配を愛し、探し求めるものとして、古い街並みが一掃されたり、その跡地に大型商業施設ができたりするのは、残念なことで見るに堪えないと思ったりはする。まして、それによって従来そこで生活をしていたり、生計を立てていたりしたひとたちが居場所を失うのだとしたら、なおさらのことだ。

個人として利用するお店だって、真新しいテナントビルの一角にある大手チェーン店よりは、ガード下の赤提灯だとか路面にある個人店が好ましいと感じるし、町屋をリノベーションしているとか、居抜きで入った前のお店の痕跡があるとかいったことも、味わい深いと思う。

けれど、だ。

お店とそこで生きるひとたちと長く関わってきて、いまはもうそんな単純なことは言えない。自分自身のお店の好みはますます鋭敏になるけれど、自分が好ましいと感じるものが、それほど「純粋」なものであってほしいというのは、そして「資本」の気配をなにか穢らわしいものであるかのように忌避するのは、ひとえに客の身勝手さで、いやそれでもよいのだろうけど、想像力と知識のなさに由来する願望だと、いまでは思う。

立ち退きになった個人店が、そのあとできた商業施設のテナントに入ることを残念がったりするのも、気持ちはわかるけれど、それもなにか履き違えているのだと思う。そもそも街によっては、もう町屋リノベーションも、ガード下の赤提灯も、個人が契約できるような物件ではなくなっている。資本が「それっぽく」つくるお店を喜ぶことと、商業施設のテナントに入った個人店を残念がることは、どちらも不見識なのだろう。

言うまでもなく、お店をやっているのはオーナーだろうが雇われだろうが一人ひとりの人間である。それぞれに生活があり、人生がある。20年以上、お店とそれをやっているひとたちと交流を続けてきて、その人生の断片をずっと見てきた。

いまワンオペでやっている個人店のオーナーシェフが、料理人キャリアをホテルの厨房からはじめたことを知っている。かつてよく通った個人店のシェフが、その後のキャリアとして大手資本系のレストランチェーンの部門長になったことも。大手セレクトショップの店長として活躍したのち個人店を開業し、それから新興ブランドを束ねるエージェントに転身した方もいる。

当たり前のことだけど、「個人店/資本系」などという対立は、少なくとも働くひとにとってまったく相容れないものではなく、自分のキャリア設計のなかで選ばれる選択肢にすぎない。だから、ある街やお店を見て「ゲニウスロキの気配がない」と感じるとき、それは要するにその街や店で働く個々人のひとのことをよく知らず、また知る機会もないということなのだろう。

大阪・八尾の〈シャルキュトリー ロシニョール〉。フランスで修業し、故郷に帰ってきたお店。古民家をリノベーションした店舗にも街の記憶が宿る。

ゲニウスロキは、個人の「記憶と想像力」の上に立ち現れる

「地霊」とはいうけれど、それは感じてくれるひとがいてはじめて存在しうるものだ。神様も、心霊も、ひとがつくる。だから、ゲニウスロキの気配があるとは、つまりひとの気配があるということだ。

わたし自身の話をちょっとだけする。

中高を過ごした北九州・小倉から、大学では大阪府豊中市にやって来た。豊中は、千里ほどではないが、新しい街ではあり、それほど重厚な歴史があるわけではない。街角で飛び交うのも、ベタな関西弁ではないし、さらに象徴的なことに公立中学校の名前はすべて数字で統一されていた(ちゃんとした地域住民とは言いがたい単身の大学生にはなじみが薄かったけれど、塾講師バイトの知見からすると、住んでいた下宿のあたりは「第十一中学校」の校区だったはずだ)。

でも、そんな街でいまに至る「お店」への関心とその探求の端緒につくことになる。きっかけは、その当時次々と個人店が誕生し、ブームを迎えつつあったラーメンだった。それはちょうど学生の財布事情でも気軽に食べることができ、かつ「探求」しがいのあるジャンルで、インターネットを介して同好の士がたくさんいた。

ラーメンは、九州出身者としてはソウルフードの一角で、地元には昔からの行きつけ店があった。メニューは「ラーメン」「チャーシューメン」くらいしかなくて、もちろん豚骨ラーメンが出る。塩とか醤油とかはない。当たり前だ。大阪に来て、美味しいと思える豚骨ラーメン店はまったくなかったものの、当時ブームのなかで次々とオープンするラーメン店をめぐるようになった。

同じような形態でも、まったく別物とわりきると、新しいジャンルとしてラーメンという料理の形式を探求して、自分の味覚を広げて、知識を身につけていくことはおもしろかった。大阪はやはり麺や出汁については、九州とはちがう好みと洗練があり、それを体得するのは大阪になじんでいくことだった。

なにより、当時のラーメン業界だと店主の顔がよく見えていたし、人的なつながりもわかりやすかった。誰がどこで修業されていたとか、どのチェーン店出身かとか、あるいはこの店は師匠から破門されたみたいなゴシップまで。

住んでいた豊中には、当時すでに開業から数年で人気店になっていた名店があり、やがてはそこに通うようになった。自分が通っていたお店を当時まかされていた雇われ店主は、ラーメンはもちろん、当時の大阪でいよいよ盛り上がりつつあった日本酒シーンにも目配せをしていた方で、そのお店で日本酒を教わった。

最初にハートランドビールをもらって、アテとお薦めの日本酒をいただく。日本酒は純米酒。それも遠慮なく燗をつける。のちにラーメンから離れてさらに深みにはまることになる蕎麦と日本酒をめぐる探求の、その入口はまちがいなくここだった。惜しみなくよいお店や酒屋、お薦めの銘柄を教えてくれる店主だった。

それから数珠つなぎにお店と、信頼できる料理人や店主たちを教わっていく。そして酒場で袖ふれあって会釈するようなところからの呑み友だちが広がり、やがていまに至る。もう20年も呑んだ大阪の街では、たいていのお店で知り合いかその知り合いくらいにつながると思う。もう会えなくなったひとも、行かなくなったお店も、疎遠になったひともいるけれど、そういうひとたちがいて、いまの自分とお店との関係がある。

それはどこまでも他人同士のことで、生身の人間たちのことだ。

酔いまじりの記憶としての美しい夜も、美しくない生々しいエピソードも、たくさんある。

けれど、そういうものの総体を、街とのもはや抽象的な関係として「ゲニウスロキ」の正体と呼んでもいいかもしれないと思う。街の歴史はひとがつくるのだから、街の記憶はひとの記憶だ。

いま大阪の街ならば、たいていのエリアでゲニウスロキの気配を感じられる。それは呑みはじめた頃にはできなかったことだ。そして、ひとはそうなれるということを身をもって知っているから、はじめて訪れた新しい街でもその気配のほんの予感のようなものは、かぎとれるのかもしれない。

その気配を、ほんのりとした寂しさまじりに、しかしやっぱり愛している。

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