町田康『家事にかまけて』第20回:玄関の重要性

作家・町田康が綴る家事、則ち家の中の細々した、炊事や洗濯、清掃といったようなこと。

illustration: Machiko Kaede / text: Kou Machida

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かなり前、「玄関盃」なるものについて書いた文章を読んだことがある。その文章に拠ると、その作者の郷里では、訪客が、「ではそろそろお暇を……」かなんか言って帰ろうとした際、玄関でこれを引き止め、「まあ、そう言わずもう一杯」とか言い、酒を奨める習慣があり、その盃を称して「玄関盃」と謂ったらしい。

「玄関盃」は一升ほどの酒が入る大きな盃で、玄関に飾ってある。つまり実際にそれで酒を飲ませる訳ではなく、当家はさほどにお客のことを大切に思っている、という表明のようなものであったらしい。その作者の家は代々の旧家であり、当然の如くにその玄関には立派な、「玄関盃」があったが、当代である筆者が貧乏をした為、それを売り払ってしまった、みたいな内容の文章であった。

筈であるのであるが、それが誰の文章であったかを老耄により思い出すことができない。そこで、インターネットを用いて安直に調べてみたところ、「玄関盃」についての記述は確かにあって、それを其の儘、書くのもナニなので一旦自分で理解して、それを自分なりに表現すると、

昔の人は今のようにドライではなく情に篤かったので、「じゃそろそろ行きますわ」「あ、そっすか。じゃ又ご連絡します」「よろしくお願いします」「こちらこそよろしく」と言って軽く頭を下げ、さっきまで白こい笑みを浮かべていたのにエレベータの扉が閉まった瞬間、真顔になって各々の業務に戻る、なんて薄情なことはなく、玄関先で履物を履こうとする客に、「時間がないのは理解しているが、せめてもう一盃だけ飲んでくだはいな」と奨め、客も嬉しくこれを受け、一杯飲んで帰っていく、その風儀・風習を指して、玄関盃、と謂ったらしい。しかしながら従前の価値観を全否定し、人情も廃った戦後にはそうした風儀も廃れ、今では大正・昭和の文学作品に僅かに見られるのみである。情けないことだ。

ということになる。ということはつまり、「玄関盃」は、ヤクザの人がする「兄弟盃」や一般の人もする「固めの盃」「別れの盃」といったものと同じような、風習、を指す言葉であり、右の俺が読んだと記憶する文章が言う、物、を指す言葉ではない、ということになる。

アレ?ということは考えられるのは、①その文章を書いた作者が間違っているのか。或いは、②AIが間違っているのか。或いは、③俺の調べ方が悪いのか。或いは、④その文章を俺が間違って記憶しているのか。或いはもっと言うと、⑤そんな文章はこの世に存在せずすべてが俺の妄想なのか、だが、可能性として一番高いのは、③か④だろう。

しかしそれにつけてもなぜ勃然とそんな文章を思い出したのかというのには明確な理由がある。というのは俺自身が常に、玄関の重要性、ということを考えているからである。

大きな会社に行くと受付があり、そこには美人の受付嬢が受付業務を行っている。それと同じように御大家には広い玄関があって、受付嬢はいないが花や壺が飾ってある。ところが儲かってない会社に行くと受付などなく、ガラガラとアルミサッシの引き戸を開け、手前に座っているボンサンかネーチャンに、「大将いてはりまっか?」と声を掛ける。そして、貧乏な家に行くと、玄関はあるにはあるが極めて狭く、そこには子供の靴やサンダルが脱ぎ散らかしてあり、傍らにはクイックルワイパーや雨傘が立てかけてある。下駄箱の上には家の鍵、認印、変なぬいぐるみや土偶、買い置きのトイレットペーパーなどが置いてあり、横腹のフックには、エコバッグを筆頭にさまざまの袋が引っ掛けてあって、三和土の四隅に埃の塊が蟠る、というようなことになっている。

玄関に立つ男性のイラスト

物事をあるがままに受け入れる、という黄金の叡智を持つものであれば、金持は金持なり、貧乏は貧乏なりの玄関を各々愉しむことができるだろう。しかし吾は凡俗にして貧乏。それができず、貧乏のくせに金持に憧れ、金持の真似をしたくなる。虚栄・虚勢を張りたくなる。

しかしやれることは限られている。小さな会社が受付だけ無闇に立派にし、受付嬢を雇ったらどうなるか。実際の作業に必要なスペースが縮小されて生産性が下がり、膨大な人件費によって経営が逼迫する。同じく貧乏人が住まう三LDKの売建住宅で、玄関のみ、お城か御殿のようにしたらどうなるか。家族は六畳一間で寝食、煮炊きも六畳に七輪を持ち込んでする、ってことになってしまう。住みにくいうえ、見栄もほとんど張れない。

ならばなにができるのであろうか。という訳で貧乏で玄関がみすぼらしい、だが金持風にして見栄を張りたい俺が考えたのは、ならばその茅屋にせめてもの彩り、つまり住人のセンスが偲ばれるようなちょっとした飾りを飾ればよいのではないか、という事である。

で俺はそれを実行した。たまたま家にあった壺や思い出の写真などを飾ってみたのである。又、画も飾った方がいいのではないかと思ったが、家に絵画がなかったのでコピー用紙の裏に、自ら考案した、「クズドミンくん」「ゴミアミーゴちゃん」というキャラクターをマヂックインキで描き、百均で買ってきた額に入れて飾ってみた。そうしたところどうなったか。

貧乏くささが百倍増しになり、俺は飾ることの愚をようやく悟った。そうなのだ。金持の玄関には確かに花や壺が飾ってはある。それらは飽くまでも空間の飾りである。しかし飾りというものは土台というか元というか、そういうものが確固としてあって初めて飾りとしての意味をなす。つまり元が駄目なものにいくら飾りを飾ってもそれは飾りではなく、ただただ鬱陶しい夾雑物なのである。しかもその飾りそのものの価値も問われる。もし金持の家の床の間に俺が描いた「クズドミンくん」の画を飾ったらどうなるか。格調というものが一気に失われる。つまり、飾りは、飾る場所の風格、及び、飾りそのものの価値、この二つが揃わないとダメなのだが、俺の場合、そのどちらもがダメだったのだ。

俺は慌てて飾りを撤去し、一部は庭で燃やして涙ぐんだ。だけどいつまでもくよくよしていられない。他に出来ることはないのか、と思い玄関を見渡して次に出来ることを考えた。で、思いついたのは片付けと清掃である。考えてみれば玄関を貧乏くさくしている原因は①飾り②散乱物③汚れ、である。それ以外に④狭さ、があるがこれはどうしようもないが、実際、①飾りを外してみると二割方、貧乏くささが減じたような気がした。そこで俺は②と③を解消すべく動き始めた。靴を靴箱に入れ、煤を払い、箒で三和土を掃き清めたのである。ひとつ迷ったのは玄関に置いてある灯油が入ったポリタンクと訳のわからない壺に挿してある電動式の灯油ポンプである。これを例えば外の物置などに移動すれば散乱感が大幅に軽減される。だがそうすると厳冬期、いちいち外の物置に油を汲みに行かなければならない。つまり見栄と実利の矛盾葛藤が生じたのである。

葛藤しつつ俺は思った。

例えば家に女の客があって、そうしたものが玄関にあったらどう思われるだろうか。貧乏なバカ爺、と思うだろう。ではなかった場合、どう思うだろう。勿論、「素敵っ」とは思わないだろう。つまりプラスにはならない。だけどマイナスにもならない。ゼロを保っていられる。なにもしなければマイナスの所をゼロにしているのだから、俺からしたらそれでもプラスである。

という訳で俺はポリタンクやポンプを片付け、俺方の玄関は、狭いが整った玄関、となった。

よかった、よかったあ、と俺は喜んだ。後は来客・訪客を待つばかりだったが、爾来、来客なく、異様になにもない、狭く虚無的な玄関を時折眺めては、なにかを飾りたい内なる衝動と闘っている。梅が散り始めている。

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