大森時生『記憶の遺影』#11:スチームについて。

本当も嘘も、演出も偶然も、溶け合って綯い交ぜになって、自分にとっての「リアル」になっていく。──近年のホラーブームを牽引するテレビ東京プロデューサー・大森時生による「現実」と「虚構」の不可分な関係性、そして曖昧な記憶について綴るエッセイ。

text: Tokio Omori / photo: Masumi Ishida

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自宅の寝室で、加湿器の「コポッ」という音が響いている。そのあとに「シュー」という細い排気音が続き、老人の咳き込むような音が聞こえる。目の下の皺が涙袋と一体化し、その皮膚は象の足の付け根みたいに重層的で、そこには独特の美(Aesthetic)が宿る。そんな老人が喉元の呼吸を想起する。

象印の加湿器はすごい。スチーム式だ。ほとんどポットみたいなものだ。一方、超音波式の加湿器に対しては、僕は並々ならぬ敵意を持っている。超音波で水を振動させてミストにするなんて、信用がおけない。ある種の不正のように感じる。社会人になってから最も驚いたことのひとつに、こんなにもズルが横行しているのだ、ということがある。

冬の朝は、不快感から始まる。喉奥には何かが沈澱しているような感覚がある。窓の方に目を向けると、結露は激しく、垂れ落ちる水をのんびりと見つめる。僕は布団の中で、その様子を追う。隣の雫をのみ込み、大きくなり、それは最後には線となり、加速する。力を入れて目をつぶり、開く。もう一度その様子を眺める。妻はすでに目を覚ましていて、頭まで布団の中に潜り込み、スマホを触っていた。仕事の返信をしているみたいだ。

我々は目を覚まして最初にやる行動=仕事になりがちだ。それは、いつ考えても新鮮な絶望感がある。トーストを焼く音が聞こえる。パンが焼ける香ばしい匂いはしない。その音は加湿器から鳴っている。食パンに焦げ目がつくときの匂いは、素晴らしい。恍惚とする。幸福の象徴であるそれを想像して鼻腔を通す。実際はそもそもパンの匂いでもないわけだが。

加湿器の蓋を開け、中の水を捨てる。赤カビが、ピンク色の粘膜のように隅の方にこびりついていた。それを指先でなぞってみる。水野さんが言っていた「キャベツの黒い膜」を思い出す。指先に残る、ぬめりとした感触。いつかとろう、そう思ったまま、今日も見逃す。次の休みにこそ綺麗にしようというかりそめの決意を固める。

洗面所に行く。歯を磨くためだ。朝は歯を磨きたい。おおよそ多くの人がそうだと思うが、僕はその気持ちがとりわけ強いという確信がある。その気持ちは強く、寝る直前に、朝起きて歯を磨く自分を想像する。それくらいブレがない。

洗面所の扉を開けると、足元に茶色い小さな水たまりがあった。とてつもない不快感が襲う。いつからだろう、洗面所の水を使うと水道管の隙間から、茶色い液体が滲み出るようになっていた。昨晩はなんでもなかったように思えるが、気づいていなかっただけかもしれない。クラシアンに連絡したら、修理には大家の許可が必要らしい。築29年の賃貸ではこういう辛いことが起こる。どちらにしても、今週の土日でないと僕は立ち会えない。仕事が詰まっている。ライフ・フォー・ワーク。

つまり、僕はあと(少なくとも)数日間、この茶色い滲みと共生する。聖域に侵入してくる。僕は爪先立ちでその水たまりを避け、鏡の前に立つ。蛇口をひねると足元の隙間から茶色い液体は増して、強化された存在になった。ゲンナリ。部屋自体が人間の身体みたいに感じられて、その身体はきっと酷い内臓の疾患を抱えているのだろう。ひどく生々しい光景だった。

「汚いよね、それ」

気づいたら妻は後ろに立っていて、そう言った。妻とこの家は同い年だ、そんなどうでもいいことに気づく。

「大家さんに電話したら、古い物件だから仕方ないって言われた。配管が、もう寿命なんだって、でも仕方ないじゃ済まないよね」

剥がれかけた壁紙、軋む床、そしてこの茶色い液体。元々は白かった(であろう)パルプ状の壁紙には、黄土色の水滴のあとが付いている。鍾乳洞のように、時間をかけて、水が垂れた履歴が残っている。

僕は無理やり歯を磨く。口をゆすぐ水だけは、ペットボトルのミネラルウォーターを使った。数年前に行ったベトナム旅行を思い出す。けれど、吐き出した水が排水溝へ吸い込まれるたびに、足元の水たまりが少しずつ面積を広げていく。ああ、そういうことになるのか。自分の排泄したものが足元に戻ってくるという閉じた円環を感じて、小さな吐き気を催す。

「名古屋、また行くの?」

キッチンから妻が声をかけてくる。昨日作ったジャガイモとちくわのバター煮をレンジで温めている。一見奇妙な食べ物に思えるかもしれないが、長谷川あかり氏考案のメニューだけあって、間違いがない。美味しい。なぜかホタテの味がして美味しい。バラバラの素材を煮込んでいるのに、全く別のリアリティが立ち上がる。

「長谷川あかりさんのレシピは、引き算と組み合わせの美学だから」

その声は、電子レンジの回転皿が壁をかすめる規則的な摩擦音とミックスされた。彼女のレシピ本を開くとき「祈り」と「浄化」がそこにはある、妻は前にそう語っていた。「ピー」と正しく三回、レンジが鳴る。妻が扉を開くと、少しだけ酸味を伴ったバターの香りが、ジャガイモの土の匂いと混ざり合って溢れてくる。冬の朝の冷え切ったキッチンに、熱を持った粒子が漂った。

妻はいま僕が何を書いているのか、詳しくは知らない。テレビの仕事だと思っている。お互いに仕事の話はしない。超えない一線がある。

「うん。先輩に、もう一度だけ聞きたいことがあって」「前会ったときは元気だったの?」「元気というか相変わらずかな」「私も今度会ってみたいな」「いいね、名古屋でもいいし、うちに来てもらってもいいし、先輩も会いたがってたよ」

本当は彼が「元気」なのかどうか、僕には判断がつかないし、考えたこともなかった。使い古された杖を持っていたからといって、元気ではないということにはならないだろう。

僕は駅までの道を歩きながら、昨日書きかけた原稿の続きを脳内で反芻する。新幹線は12時13分発。名古屋に着く頃には、僕の記憶の中で少しだけ歪んでいるはずだ。

新幹線の車内で、先輩のことを思い出していた。先輩とは音楽の趣味が一致していて仲良くなった。新幹線の座席に深く身体を沈めると、トンネルに入るたびに鼓膜がわずかに圧迫される。水の中にゆっくりと身体を沈めたときのように。先輩とは、音楽の話をよくした。

とはいっても、音楽について熱く語り合うというよりは、部室で(先輩はスキー部だった。4月から11月まで実質倉庫と化した部室でよく一緒に過ごした)ただ妙な音をずっと聴いているだけだった。どこかの掲示板から拾ってきたというMP3のデータ。それらはどれも、どこか伸びきったゴムのような音がした。Vaporwave。当時はそんな言葉もよく知らなかったけれど、先輩が流す音は、メランコリックで、僕は大人になれた。

先輩はもうスキーをすることはないだろう。猫 シ Corp.の『Palm Mall』を聴いた。当時はショッピングモールのことばかり考えていた。架空のモールだ、そこで僕たちは雑踏の中、イージーリスニングだ、と呟きながら歩いていた。エスカレーターを昇り、降りたりしていた。

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