たった一人で製作に向き合う、時計の求道者
NHKは、2015年に日本人独立時計師の特別番組をBSプレミアムで制作・放映した。その人物こそ、当時32歳だった菊野昌宏である。
1983年、北海道深川市生まれ。「時計といえばGショック、という世代」だったという彼は、高校卒業後に入隊した自衛隊の上官の影響で機械式時計に興味を持ち、時計雑誌を購読し始めた。その中の一冊で独立時計師の存在を知ったことが、彼の運命を変えた。
複雑な機械を自作する彼らの仕事に心がときめき、やがて「自分も作ってみたい」との衝動が抑え切れなくなり、自衛隊を退職。東京・神宮前にある専門学校〈ヒコ・みづのジュエリーカレッジ〉のウォッチコースに入校した。

「入学当初から“独立時計師になるんだ”と、公言していました」
そして2008年に卒業してからは、自身の創作活動に没頭。独立時計師になるためには、メーカーの時計にはない独創性が不可欠である。
「模索する中、江戸時代に田中久重が製作した万年時計を紹介するドキュメンタリー番組を偶然観たんです」
江戸時代の日本では日の出・日の入りを起点に昼夜を分け、それぞれを6分割して一刻とする不定時法が用いられていた。日の長さは日々変わり、昼夜それぞれの一刻の長さも変化する。これを自動で調整する機構を、田中久重は発明したのだ。
「日本人として、同じ機構を腕時計で再現したい」と決心した菊野は、試行錯誤の末に11年、万年時計の機構搭載に成功。十二支が描かれたコマ(インデックス)が春分・秋分点を境に自動で移動する、その名も「和時計」である。それが独立時計師界の重鎮フィリップ・デュフォーの目に留まった。そして彼の推挙で「和時計」完成と同じ年に史上最年少で独立時計師協会アカデミー(AHCI)の準会員(13年から正会員)となった。
その後も、金属製の折り鶴が羽ばたくオートマタが備わる時計や、前述の「木目」のように、菊野は一貫して日本の伝統を時計で表現してきた。そうした独自の世界観が評価され、注文が殺到。これまでに納品してきた22本は、どれも注文主の要望に応えた一点製作品である。
モデルをシリーズ化せず、また自動化された工作機械に頼らず一人、ほぼすべてのパーツを自作する菊野は、求道者のようだ。しかしそれゆえに製作には、時間がかかる。
「バックオーダーをこなすため、18年から注文を止めました」
CNC工作機がかなえた国産初の超複雑モデル
受注分を24年に作り終えた菊野は、新たなムーブメント開発に取り組んだ。それが「コンプリケーション」である。そのパーツ製作には、自動で切削加工できる小型CNC工作機が使われている。これまでの流儀に反して採用したのは、今教鞭を執る母校〈ヒコ・みづの〉の学生たちのためだ。
「時計を自作したいと願う生徒にとってCNC工作機は、あった方がはるかに便利。その導入を学校に進言するために、まずは自分で使えるようにならねばと、購入したんです」
その性能を確かめるために「どうせなら難しい機構にチャレンジしよう」と、ミニッツリピーターとトゥールビヨン、クロノグラフを1つに統合することに挑んだ。
「ミニッツリピーターの製作は大変でしたが、それ以上にクロノグラフが難しかった」と、菊野は振り返る。スペースの都合上、7時位置のインダイヤル内にクロノグラフ機構を集約しなければならなかったからだ。
25年4月、ジュネーヴの見本市『ウォッチズ&ワンダーズ』に合わせて開催されるAHCIの展示会で「コンプリケーション」を発表すると決めた彼は、出発の直前まで調整を繰り返し、ギリギリでプロトタイプのお披露目にこぎつけた。

7年間も注文を取っていなかったこともあり、会場を訪れたコレクターたちは、こぞって菊野の周りに集まってきた。「“今すぐ支払うので注文したい”とおっしゃってくださる方もいました。もちろん断りましたが」
現在、菊野は「コンプリケーション」の最終調整に向き合っている。「おそらく年内には注文を受けられるようになると思います。ただし1本か2本程度ですが」
受注開始時期などは、公式サイトとインスタグラムで発信される。「今年注文を受けて1本目の納品は2年後、2本目は4年後ですね」きっとそれでもオーダーは、後を絶たないはず。世界中の時計愛好家たちが、その作品を切望し続ける。






