「奇妙な日々でした。そしてその奇妙さは一瞬で私を貫くタイプのものではなくて、丁寧に製造されたローゲージのニットカーディガンみたいなもので、シームレスで継ぎ目が見えないものでした」彼女はつらつらと続けた。
「結局、致命的なことは何も起こらないんです。少しの違和感とストレスだけを与えてくるような。首筋を繰り返し、細い糸で撫でられているような。なんだか落ち着かない気持ちで日々を過ごしていました。昨年の冬でした。離婚を決めた日は。すごく寒い日でした。今日みたいに。まだ10月なのに、今日はすごく寒いですね」
気づくと窓は結露していた。確かに今日は寒い。彼女の過ごしていた昨年の冬から急に今に引き戻される。伸びた猫が急に縮んだ時の感覚。体の奥で、弦を強く弾かれた猫。
「冷蔵庫を開けたら、昨日切ったキャベツの断面が黒く変色していたんです。ちょっと悪くなった、そんな生易しいものではないです。有無を言わせぬような、砂糖が鍋底で焦げた時みたいな、そんな黒色でした。たった一日で取り返しがつかなくなるまで黒くなるなんてあり得ないでしょう?でも、それは本当に起こっていました。キャベツの断面を撫でると、指先にねっとりとした黒い膜が残ったんです」
まるで怪談を聞いているみたいな気持ちになった。
「普通ならシャバシャバした水気のある青臭さですよね。でもそれはまるで黒蜜を指でつまんでしまったみたいで。野球選手がぬるみたいにぬるりと重たくて。すぐには離れてくれない。指を開くと糸を引いて、そう、ひどく生々しい感触でした」
黒溜まりを想像する。彼女がそれを見つめている姿を。キャベツからは鼻にこびりつくような匂いがして、糸を引いている。それを見たときの彼女の瞳の目は黒い。
「冷蔵庫を閉めたあと、悪寒がしました」
彼女は何かを訴えかけるような言い方をした。そこには何かしらの切実さを伴い、けれどその切実さの輪郭ははっきりとはつかめなかった。透徹した雰囲気を持つ声からは、なんだか外気の冷たさが漏れてきた。手が冷たい。僕の手が冷たいのか、彼女の手が冷たいのか。
名古屋で、先輩が話していたことを思い出す。
「自分が話すことと、現実がずれ始めている患者は、息が浅いんです」
彼は読点を打つように、区切りながら話す。それは高校時代から変わっていない。
「それだけじゃなくて、体の芯がひどく冷える。真冬の廊下を裸足で歩いているみたいに。足元からじわじわと頭頂まで冷えていくみたいに。空調の利いた部屋にいても、どうしようもなく寒くなる」
彼女は「それ」を水道で何度もこすり落とそうとした。皮膚をタオルで擦っても、黒はむしろ広がるように見えた。ぬるい水の流れに混じり合い、細い川筋をつくる。また指に戻ってきているみたいだ。夫が帰宅する足音が聞こえる。でも、見せてはいけない。夫に見られたら戻れなくなる。そう思った。
換気扇の回る音が遠くで鳴っていて、でもそれは本当は近かった。目と鼻の先にあった。耳にも膜が張ったかのようだった。何か言えばよかったのかもしれないけれど、口を開く前に、彼女の息が浅くなった。何かがのどを塞いだ。
「だからそこで決めたんです。離婚しようと」
僕にはその論理展開が理解できなかった。けれど、理解できないことを理解できないと伝えたところで、さして意味はないだろうという気もしたし、余計に会話を崩すことで彼女が語ろうとしたことの核心を遠ざける予感がして、それはできなかった。
彼女はもうすっかりぬるくなっている水を飲んだ。一口飲んで、戻した。水分を補給しているというより、喉に水をくぐらせる作業に見えた。その時の記憶が蘇っているのだろうか、その時塞いだものを除去しようとしているのか。
「キャベツの黒さとか、指の感触とか、そういうのを、たぶんそれを夫婦で一緒に抱えるのは無理なんです。説明して納得してもらうとか、そういうことじゃなくて。目に入った瞬間に、もう違ってしまうんです。夫と私とで」
「それは見え方が、もうそもそも異なっているということですか?つまり、そのキャベツを見たとしても、黒さを感じないということですか?」
僕の問いに、彼女は小さく首を振った。
「感じるかもしれません。でも、私が見たものと全く同じようには感じることはありません。たとえば“ちょっと傷んでるね”って言って、ラップを外して捨てる。そのくらいで済むでしょう。私にとっては全然済まないのに。
たぶんそこに大きな差があるんです。同じものを見ても、違う温度で、違う形態なんです。これはあくまで一例でしかないということです。その差が積み重なっていくと、もう共有の場所がなくなるんです。だから、離婚しようと思ったんです。説明できる理由は他にもいろいろあるはずなんですけど、私の中ではそれで十分でした。理由というより、ただの実感ですけど」
窓の結露に目をやった。水滴がゆっくり蛇行しながら、筋を描いて落ちていくのを見た。
その日はそれでお開きになった。追ってメールで今回の件、お返事させていただきます。何かご質問ございましたらいつでもおっしゃってください。急に紋切り型の会話になったのも、すごく、変な気持ちになった。どうにもこうにも。

*
これを読んでいる読者の皆さんにも一度想像していただきたいです。
大きな氷が入ったグラスに水を注ぐところを想像してみてください。それをグラスに並々と注ぐ。それはこぼれんばかりだ。そのまま放置しておくとどうなるでしょうか。氷が少しずつ溶けて、水面はじわじわと上がっていく。やがて縁を越えて溢れるところを想像する。実際には溢れない。氷が溶ける時に体積が変化するとか、そういう説明はできる。
でも説明を聞いても、目の前で起こっていることが「こぼれない」という事実にはなんだか肌に馴染まない感じもある。彼女の語りは、ずっとそんなイメージを持った。奇妙な話ではあるけれど、どこか抑制されていた。
彼女の中に指揮者のように、トロンボーンの音やシンバルのタイミングに至るまで、目配せして間違っても乱れた動きを起こさないようにしている。その抑制はなんだか切ないものでもあった。
*
家でぼんやりとシャワーを浴びている時に気づく。一体それで、どのタイミングで企画を思いついたんだろう?肝心な場所を聞きそびれてしまったみたいだ。浴室の鏡に残る曇りが割れていく。指で一つなぞると、そこだけ輪郭が出て、またすぐ滲む。風呂から上がる。脱衣所のマットが湿っている。会議室の結露を思い出す。
リビングの電気をつける。昨晩妻が残した成城石井のキッシュを食べる。少し酸っぱくて捨てた。机に座りラップトップパソコンを開く。件名の欄にカーソルが明滅しているのをしばらく見る。明滅しているあいだは、まだ何も始まっていない。
「完璧な真実を与えないことこそが、本連載の唯一の約束事になる」
水野さんが口にした言葉を反芻する。目をつぶり、耳奥でその音をリフレインさせる。湯が沸く音で止まる。電気ケトルの湯気は、冬の換気扇に負けてすぐ薄まる。
企画書の一節をもう一度読み直す。
《今までフェイクドキュメンタリーという『フィクション』を多数制作してきた大森時生さんがいま現在、関心を寄せる人物に対し、インタビュー形式でその人物の語りを記録する。その語りを、ただ事実として並べるのではなく、意図的に「事実ではない事柄」を混ぜ合わせる。
具体的には、語りの中に『フェイク』ないしは『フィクション』を差し込み、事実と虚構の境界を限りなく曖昧にすることで、読者が「何を信じ、何を疑うのか」を自ら選び取らざるを得ない構造をつくる。
つまりこれは、ドキュメンタリーの体裁を借りながらも、実際には「虚構が現実として立ち上がる瞬間」を体験させる試みである》