何度も申しあげて申し訳ないが、申しあげて申し訳てなんやねん?とも思うが、俺の家は山の中にある。そして山というのは町より寒い。なぜなら標高が高いからである。標高が上がると気温が下がる。なんでも百米上がる度に〇・六度下がるらしい。俺の家があるあたりは町より三度がとこ低いから、俺の家のあるあたりの標高は五百米ってことになる。
なんぼなんでも五百米ちゅうことはないやろ、と思い、「(地名 標高)と打ち込んで検索してみると、「〇〇町の標高は場所によって異なりますが、Mapionの情報では〇〇バス停付近で標高約303mと示されています。」と出た。
そら寒いはずやわ、と改めて思う。その際、百米で一度下がっているのは、神さんの罰であろう。俺があまりにもちゃらんぽらんな、ろくに仕事をしないで家事ばっかりやっているアホアホ爺さんだから神さんの罰が下っているのだろう。近所の人に申し訳のないことだ。
なので道で近所の人に会った際には謝罪しようと思うのだが、そんな時に限って、もの凄く急いでいたり、バカ丸出しの服装をしていたりで未だに謝罪できないでいる。
あかんやんけ、と思うが、強く思うが、しかしその一方で、仕方ないナー、とも思うのは、そもそも人が歩いていないからである。今の家に越してきたのは十五年前。それまでは東京の、それも都心に居たから人の少なさに驚いた。そしてなにより驚いたのは初めて過ごした冬の寒さである。どういう寒さかというと、通常、寒さを感じるのは皮膚である。だが、この家の寒さは皮膚ではなく、肉、さらには骨にて感じる寒さなのである。
又、底冷えもエグく、厚手のソックスを穿いておっても、くるぶしから下が冷水に浸かっている感覚があって、「スコット探検隊」「八甲田山 死の彷徨」と云った文言が頭に浮かぶ。
そんなことでこのままでは死ぬと思った俺は、床暖房を導入するなどさまざまの見苦しい努力をした。中でもっとも注力したのはやはり暖房の拡充であり、それにより、一応、家の中での凍死やヒートショック、という最悪の事態は避けられた。
それら暖房装置は、しかし春から秋にかけては不要の装置である。特にただでさえ暑い夏に、そうしたものが目に入ると、いっそうの暑苦しさを感じる。
がため、そうした暖房装置は春から秋にかけては納戸の奥深くに蔵せられてあり、秋が深まり、朝晩、冷え込むようになってきたなあ、と感じる頃、これらを納戸から引張り出してくる。
そうした行為を何と謂うか。冬支度、と謂う。
いや、しかしながら町に暮らしている頃はそんな事をしなくともよかった。空調のリモコンのボタン、それまで、「冷房」を押しておったのを「暖房」に切り替えるだけでよく、もっと言うと端から「自動」を押しておけばよかった、則ち、冬支度、なんてことはせずに済んだのである。
と言うと、「いやさ、季節感の失われた昨今、冬支度なんてなあ、かえって乙でござすよ。羨ましゅうござあすナー」と、言う人があるのかも知れない。そんな人はチョビ髯を生やし、冬も扇子を持ち歩いているのかも知れない。ツイードの上着を着て俳句をひねっているのかも知れない。

だが俺は髯もなければツイードの上着も持っておらず、俳句もひねらない。なのでそれを乙と思えない。面倒くさい、としか思えない。
と言うのは、例えば暖房装置である。まず今の俺の家暖房装置の全貌を明らかにすると、石油ファンヒーターというやつが三基、昔からある反射式の石油ストーブが三基ある。それから、ガスファンヒーターというやつが一基、オイルヒーターが二基、電気ストーブが三基、ホーム炬燵が二基、エアコン二基、長火鉢一挺、手あぶり火鉢一挺、電気式床暖房、ガス温水式床暖房、であるが、これらをすべて再稼動させるのはかなり面倒くさい。
マア、エアコンや床暖房は床に蔵され、又、壁に取り付けられてあり、スイッチを入れるだけで運転を開始する。しかし、ストーブ類、とりわけ石油ストーブはそうはいかない。まず納戸からこれを取り出してこなければならないが、それが面倒である。
なぜかというと、納戸にはストーブ以外の様々な雑物が収納されてあり、ストーブを取り出すためにはまずそれらを退かす必要があるからである。そしてその雑物の中には、忘れてしまいたい過去の失敗、をまざまざと思い出させるもの、が含まれてある。なんでそうなるかというと、俺は、嫌なもの、目にしたくないもの、自分にとって都合の悪いもの、はすべて納戸に放り込み、なかったこと、にして日を暮らしているからである。
長くなるし、冬支度と関係がないので、その詳細をここに記すことはしないが、兎に角、ストーブを取り出すときはそれと向き合わなければならないし、不安定に積み上がったそれらが、ぐわんがらぐわしやん、と音を立てて崩れ落ちてきて頭部を直撃する危険にも晒される。
そんなことをしてようやっと取り出した石油ストーブを各部屋まで運ぶのであるが、石油ストーブというのは全体が鉄で出来ているため、きわめて重い。これを両の手で持ち上げ、がに股で各部屋に運ぶ姿は、どこからどうみても女に持てる姿ではない。俺はもっとカッコいい男になりたかった。
で、ようやっと各部屋に設置して、だがそれで終わりではなく、これに油を入れなければならず、一斗入りのポリタンクを提げてセルフスタンドに買いに行く。俺は愚かな大衆の一人だがこんな時だけ御政道のことが気になる。
そして灯油一斗がまた重い。左手に持って歩くと体がくの字なりに曲がる。これを車から玄関へ運び、灯油用のポンプで給油するのだが、この際、どれほど慎重に事を運んでも、灯油が垂れ、或いは零れ、且つ又、手が油で汚れ、衣服にも灯油が付着する。
勿論これは俺が、無惨なまでに不器用に生まれついたからに違いないが、それにしても掌で大体の事ができるようになった今現在、事、給油に関してはこのように原始的な方法しか選択肢がないのが俺には理解できない。理解できないことを強いられると人間の精神は傷む。だがこれをしないことには冬支度が進まない。
そんなことを七回やってようやっと石油ストーブを使えるようになるのだが、それだけでは不十分で、それが終わったらこんだ布類の展開をしなければならない。というのは衣類ではなく、部屋の敷物や、暖房効率を高める為、各処に垂らすカーテン、と言えば聞こえはよいが、昔から家にある汚らしい布で、それらを押し入れの奥から引っ張り出してきて、洗濯挟み、麻紐、書類クリップなどで留めるのである。カーテンレールのようなものが必要な際は、道で拾ってきた竹や枝で代用し、素材や色はチグハグで、時にバカみたいな画が描いてあったり、長さも寸足らずだったりするので、家は一気に河川敷や地下道のダンボールハウスのような様相を呈して悲しい。だけど寒さを凌ぐにはこうするより他ない。
そんなことを全部やった上で、コタツに首まで潜り、余人に意味のわからない呪文のような文字を書いて文学と偽称して春を待つ、俺がいる部屋には誰も入ってこないし、入ってこれる奴も居ない。稀に入ってきた奴は必ず、こう言う。
「あっつーっ」