祇園〈両足院〉副住職・伊藤東凌の法話。無心になれる、京の古刹

京都の古寺名刹を訪ねれば、日常を忘れ、無心になれる時空間が待っている。例えば白砂が清々しい庭で。あるいは禅の心を伝える寺院の回廊で。風の音に耳を傾け「何者でもない、ただの自分になる」という余白を知る。

photo: Makoto Ito,Kunihiro Fukumori / text & edit: Masae Wako

「余」を手放すことで、余白が見えてくるのです

「余白とは、その字の通り“余っているもの”。私たちは、余っている時間や空間を効率的に埋めようとしすぎて、本当はすでに持っているはずの“余っているもの”が、見えづらくなっているのではないでしょうか」座禅体験や歩く瞑想など、さまざまなアプローチで禅の思想を伝えている〈両足院〉の副住職、伊藤東凌さんがそう話す。

「自分にとって本当に必要なものを見極めれば、余白を覆い隠してしまっている“余分”に気づくはず。その余分を手放したり交換したりすることで、余白は見えてくるのです」

京都〈両足院〉本堂
池泉回遊式庭園に臨む本堂の縁側で座禅をする伊藤東凌さん。

例えば座禅は、自分への執着を手放し、誰かが作った「よい人生」探しのゲームから離れる時間。心の中にある余白に気づけば、何者でもない本来の自分に再接続できる。

「座禅でよく話すのは、スピークからリッスンに切り替えること。言葉を発するよりもまず聴く姿勢でいることで、気持ちに余白が生まれます。仏教には、仏の声を聞くことが悟ること、という教え“声聞乗(しょうもんじょう)”がありますが、その意味で私が好きなのは〈詩仙堂丈山寺〉。

近景、中景、遠景が織り成す庭に向かって耳を澄ますと、木霊のようなざわめきや鳥の声が聞こえてくる。庭にも、こちらの話を聞いてくれる気配があり、心の声で静かに語り合うような時間を過ごせるのです」

京都〈詩仙堂丈山寺〉書院
書院の縁側越しに前庭を眺める。青紅葉やサツキの緑と白砂の対比が美しい。秋には奥の紅葉が真っ赤に染まる。

お寺の回廊や神社の鳥居が持つ連続性も、ある種の余白に導いてくれる、と伊藤さん。

「〈伏見稲荷大社〉の鳥居が立ち並ぶ光景は、極めて瞑想的。連続する鳥居の中を歩くことで、自分というものがいったん埋没し、思考がクリアになる気がします。あるいは宗教建築の特徴でもある回廊。宇治の〈萬福寺〉の、伽藍(がらん)をぐるりとつなぐ大回廊は格別です。両足院でも“歩く瞑想”を行いますが、回廊を歩き続けるループの中に身を置くと、自意識が消え去って無の心になれるんです」

京都〈伏見稲荷大社〉千本鳥居
本殿背後から奥社奉拝所にかけて朱塗りの鳥居が連なる「千本鳥居」。

一方、予定を決めずに町を散策することで味わえる余白も、京都ならでは。

「鴨川の河川敷を歩けば、この川が町と自然を分けてきた“境界”であることを感じるでしょう。お寺の縁側には、建築と庭を曖昧につなぐ“間”が存在します。そういう、どちらにも属さない中間領域に触れると、心がふわりと解放されるんです。また、京都では通りの名に町の記憶が宿っています。

京都御所の西にある衣棚通(ころもんだなどおり)や釜座通(かまんざどおり)は、御所の暮らしを支えた呉服屋や釜屋が並んでいたことの証し。その意味を知り、古(いにしえ)に思いを馳せる心の内にも、温かな余白が生まれているはずです」

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