晩秋の湿原、幽玄の魚 文・古川広道

text: Hiromichi Furukawa / illustration: Kansui Abe

釣りとは人生、友達、趣味、暇つぶし、気分転換、コミュニケーションツール、堕落への道、なくてはならないもの……。人の数だけある釣り観をエッセイから覗いてみよう。

夜の余韻がまだ残る薄暗い明け方の河畔林に、リーンリーンと熊よけの澄んだ鈴の音が吸い込まれていく。

ザク、ザクと幾重にも積み重なった落ち葉からは冬の予感のようなものが、その香ばしい匂いと共に立ち上る。周りの気配に気を張り巡らせ、さまざまな動物たちが踏みしめた獣道をトレースしていくと薄っすらと靄(もや)がかかる真っ黒な水面が見えた。

この辺りの水深はだいたい1メートルほどだが、そんな朝の水面にはどこか深い深い川底に引きずり込まれそうな雰囲気がある。

自然を、また自然との繫がりを感じたくて釣りに行くのに、不気味に感じるその光景には、畏怖というか少しの怖さがある。

釣り場には稀に見えない扉が出現し、その扉をくぐると違う世界に迷い込んだような感覚になることがある。そこは時間の流れが渦を巻いていて、精霊や妖怪が棲(す)む世界のよう。

いつもの場所がまだ見ぬ世界になり、釣り竿を片手にそこを探検するのだ。秘境には終わりがあるが、その世界の地平には終わりがない。

魚が潜んでいそうなポイントを見ながらロッドを継いでリールから糸を引き出すと、バリバリバリと乾いた音が湿った森に人工的なリズムを響かせる。

その音が釣りを始める合図でもあり、湿原や森の堆積したとてつもない時間に飲み込まれないようにする抵抗にも感じられ、人が作りし美しい音色に少し安堵する。

昔のアイヌの人々は漁をする時、神への敬意や豊漁を祈願し、装飾の入った美しい道具を使っていたらしい。人の手が作った美しいものは神や自然の造形に対する挑戦でもあり捧げ物でもある。

それでも晩秋の湿原は言葉にできないほど本当に美しい。

霜が草木に降りた朝は太陽が昇ると、溶けた霜が水になり木々や草から地面にめがけて一斉にザザーっと滴り落ち、雨音のように湿原に響く。それはまるで天地創造の一幕のようだ。

そんな雨音の中で、繁殖期の雄鹿がヒュイ──ンンとどこか物悲しくも感じる声をあげる。シベリアから渡ってきた白鳥も遠くで鳴いている。

目を凝らすと川辺のミズナラには人間の子供くらいの大きさのオオワシが首をもたげ羽を休めている。周りの草木は精気を次の世代へ渡す準備で静かに佇む。

そんな気配にアンテナを張り巡らせていると、対岸の黒い水面に大きな波紋ができた。質量を伴った大きな波紋は魚が大物だと告げている。イトウだ。

魚偏に鬼と書いてイトウ。神話と現代を行き来する魚にふさわしい名前だ。鹿を飲み込んで死んだイトウが、川を堰(せ)き止め湖ができたという昔話もある。この怪魚を鹿の毛や鳥の羽根で小魚に模した毛鉤(けばり)を作り狙っている。

このあたりのイトウは生息数が少なく、なかなか釣ることができない。

10年狙っていても姿さえ見ることが叶わない人もいる。昔はたくさんいたらしいが、乱獲、気候変動、農地からの排水の流入などによってその数を減らし続けている。神話の世界に逃げ込んでしまったのかもしれない。

鮭も同じように毛鉤で釣るが、鮭はだいたい4〜5年で生まれた川に戻ってきて産卵をして死んでしまう。いっときは市内の跨げるほどの小さな川に繫がる海の色が、鮭の背中で真っ黒に変わるほどいたのだが、年々現れる鮭の黒い渦は小さくなっている。自然のエネルギー量が減少しているのだ。

河口で渦になっている鮭や、釣り上げた鮭の瞳孔が開いている目を見て思うのだが、普段は見えない土地や海のエネルギーが鮭によって可視化されているような感じがする。

個がなく鮭全体のエネルギーが川から海へ、海から川や森へ移動しているような感じだ。そして食べることでそのエネルギーを少しお裾分けしてもらっている。

釣った時の感触や躍動感、浜辺の大きめの石で鮭の頭を強打すると、痙攣(けいれん)し、命が失われていく様子。それらがいつまでもどっしりと澱(おり)のように自分の身体に沈んでいる。

初めてイトウを釣った時はギョロッとした大きな目で睨まれ、これは殺してはならないと思って慌てて川へドボンと返した。あれはなんだったのだろう。

釣れたイトウの大きさは鮭と同じくらいだったけど、鮭の纏(まと)っている雰囲気とイトウのそれとは全く雰囲気が違った。釣り上げて触れた時に個というか感情みたいなものを感じたのだ。

産卵を繰り返し20年も生きるからだろうか、その不思議な感覚に、どうしてもまたイトウに出会ってみたいと思うようになった。

時間を見つけて川に通ってみたが、なかなか釣れない。釣れないからどうしたら釣れるのかと思って、ありとあらゆるイトウの文献を読み、たくさんの毛鉤を巻き、しっくりくる竿やリール、ラインを山のように試した。

天気はもちろん潮汐や月の位置も調べている。それでもイトウはなかなか出てきてはくれない。科学的なアプローチだけでは何かが足りないのだ。そもそも科学というものは現在までに解明されている過去の成果だ。まだ見えていないもの、説明できないことはたくさんある。

空から降る雨、森から採ってくる山菜、大海原を回遊して戻ってくる鮭、猟師からいただく鹿など、この土地のものから身体の数%は出来ている。人もこの土地のエネルギーの循環に少し組み込まれているのだ。

晩秋に釣りをしていると寒くて自分の吐く息が白くなって空間に霧散していくのが見える。ほんの少しだけど周りの環境に混じり合っていく。

食を求める釣りでは、その体験から得られる感触とエネルギーの循環が残るけれど、そうでない釣りはより釣果に左右されず、普段見えないものが見えてくることが多い。命のざわめき、森からの視点、あやかし。

湿原の中を一日彷徨(さまよ)ったが、イトウは釣れなかった。今日は扉が開かない日だったのだろう。

夕方になる3時に釣りを終え、車に乗り込み帰路についた。サバンナのような広大な原野を割る真っすぐな道路を走っていると、昇ったばかりの大きな満月と沈みゆく真っ赤な太陽に挟まれ、神話の世界にも地球という惑星にもいるような不思議な感覚になった。

それぞれ違う世界じゃなくてちゃんと繋がってるんだ。かつても今も。

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