命のある味 文・千葉麻里絵
text: Marie Chiba / illustration: Kansui Abe
午前四時。終電を逃して店から閉め出された酔っ払いが、始発を待ちきれず路上で眠りはじめる頃。
気の早いカラスが鳴き出し、そんな街の空気を感じながら、お酒に強い私でさえ「そろそろ飲み納めようかな」と明日を気にしはじめる時間。
いつもならそんな午前四時に眠りについているはずが、この日は珍しく先輩に呼び出され、車で海釣りへと出発した。
頰をなでる冷たい風が、朝早くから仕込みを始める酒蔵での日々を思い起こさせ、感覚が少しずつ研ぎ澄まされていくのを感じる。
漁港に着くと、まだ薄暗い海へ向けて小さな船が出航する。港を離れると波が強まり、「酒には酔わない私も船には酔うのか」なんて苦笑いしながら、釣りの準備に奮闘する。
結局、釣り好きの先輩に釣り竿の扱い方、エサのつけ方、糸を落とすタイミングを全部イチから教えてもらったけれど、実際にやってみると全然うまくいかない。
仕掛けは絡まって、糸は風に流されて、手と頭がバラバラ。先輩も釣りに集中したいのに私が騒がしくて、申し訳ない気持ちになった。だんだんと自分に腹が立ってくる。
そんな時、「ぶるっ」と手元に重みが伝わった。興奮をおさえながら、あわてずにゆっくり巻くと、銀色の魚が浮かんでくる。
それはもう明るくなった朝の光を浴びてキラキラと光る鯵(あじ)だった。それを見た瞬間、自分の中のノイズがすーっと消えた。嬉しくなる。
鰺はその日に自分のお店に持ち帰って、なめろうにした。うちでは定番のおつまみだ。だからこそ、いつもは調味料で調える。
どんな味噌を使うか、薬味は何にするか、アクセントでいぶりがっこ、奈良漬などを入れるか。ミントを入れて洋っぽくするか。なめろうは「味をつくる料理」だった。
でも、自分で釣った鰺は違った。包丁を入れた時の皮の張り、骨の切れる音、透き通るような身の艶。味噌はほんの少しでよかった。余計なものはいらない、生きものの力。圧倒的な美味(おい)しさ。
それは、酒蔵で搾りたての日本酒を飲んだ時の感覚に似ている。タンクの前に立ち、香りや蔵の空気、ひんやりとした空間で耳を澄ます。
米、水、見えない菌、つくり手の呼吸、言葉にできない色々な要素が混ざり合って、瓶の中の日本酒がただの液体じゃないんだ、と感じる瞬間がある。
「これは、ここでしか生まれなかった味なんだ」と、身体が先に理解し、ただただ美しく感動する。この瞬間に初めて出会えた時に私は日本酒の仕事をしたいと決めた。そんな事を思い出した。
釣ったばかりの鰺も、搾りたての日本酒のような、そんな命のある味がした。
自分の手で釣った鰺と、自分の知っている大好きな日本酒と合わせて食べた。最高のペアリングである。
日本酒を美味しくするために、さまざまな表現を試してみることもあるけど、生き物そのものと真正面から向き合う時間が、私の感覚をまっすぐに戻してくれる。
感覚がブレたらまた船に乗ろう、命の味を忘れないために。