イキな釣り姿 文・中原一歩

text: Ippo Nakahara / illustration: Kansui Abe

釣りとは人生、友達、趣味、暇つぶし、気分転換、コミュニケーションツール、堕落への道、なくてはならないもの……。人の数だけある釣り観をエッセイから覗いてみよう。

私が上京したのは1997年、日本全国のお茶の間のテレビで、サッカー日本代表が悲願のワールドカップ初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」の瞬間が繰り返し流された、あの年だった。

当時、20歳の若造の私が驚いたのは、東京の大人の間で「イキ」という言葉が頻繁に使われていることだった。

例えば鮨の食い方、蕎麦の手繰り方など、食い物や食べ方にまで「通」や「イキ」などを求めるカルチャーは、地方にはない洗練された都会の象徴ですこぶるカッコ良くみえた。

あれから30年。少なくなったとはいえ、東京には今でもイキを感じさせる洒脱な大人がいる。しかし、それは必ずしも食べ物の世界に限った話ではない。

よく考えると、私が少年時代から沼にハマって抜け出せないでいるヘラブナ釣りの世界にも、言葉では説明しがたいこうした美的理念が息づいている。

「あいつの釣り姿はイキだね。カッコいいね」

この場合の「イキ」は、釣り人の姿格好など外見ばかりではなく、自然と向き合う姿勢や精神性が関係している。そもそも、ヘラブナは「釣って食べる」が目的ではない純粋なゲームフィッシュで、釣れた魚はその場でリリースするのがお約束だ。

だったら、なぜ釣るのかという声が聞こえてきそうだが、その醍醐味は「釣り味を愉しむため」だという他に言葉がない。

私がヘラブナ釣りを始めたのは、中学生の頃だった。故郷の佐賀は水郷地帯。地図を俯瞰するとまるで網の目のようにクリークと呼ばれる水路が縦横無尽に入り組んでいて、その全てにヘラブナが生息していた。

東京には、釣りができる水辺がなく、あったとしても、管理釣り場か釣り堀で、竿を出すにはお金を払わないといけない。

それに比べると、佐賀はクリークの中に町があり、我が家があった。いつでも、どこでも、タダで釣りができた。1年365日、釣り人を見かけない日はなかった。そんな環境だったので、大人達に混じって見よう見まねで竿を出すまで時間はかからなかった

当初は休日の趣味だったが、やがて週末だけでは飽き足らず、学校をサボって釣りに出かけるようになる。

とくに春の雨上がり。増水した水路の浅瀬に何百、何千の魚が産卵に押し寄せる「乗っ込み」の時期は、大物に巡り会う確率が高い。

まだ声変わりしていなかった私は、母の声をまねて「息子は風邪で休みます」と学校に電話を入れ、両親には朝の補習に参加するふりをして、夜明けと同時に釣り道具を担いで自転車のペダルを漕ぎ出した。

「今日はどんな大物が釣れるのだろうか」。今思えば笑い話だが、あの期待と興奮に満ちた夜明けの胸の高鳴りは忘れることができない。

ところで、私がこの釣りにどっぷりと浸かって戻れなくなったきっかけは、釣りには欠かすことができない、ある道具に魅入られたからだ。それが「竹竿」だった。

ヘラブナに限らず、現代の釣りでは、魚を釣り上げる道具としての竿は、軽量で反発力に優れたカーボンに優(まさ)る素材はない。

それに比べると天然素材の竹竿は、使い方を間違うと穂先が曲がってクセがついたり、すぐに故障が出てしまう。

しかし、竹本来のバネを上手に使って丁寧に竿を操ると、竿が見事な弧を描き、「コクン、コクン」というヘラブナ独特の手応えと共に、竿を矯(た)めておくだけでなんなく魚が水面に浮き上がる。

クリークには竹竿を使う名人上手が何人もいて、その無駄のない竿さばきに惚れ惚れとしたものだ。そればかりでない。そうした大人は人間的にも魅力的な人が多く、釣り初心者の私の面倒をあれこれみてくれたものだ。

当時はそんな憧れの対象である大人をなんと表現すればよいか言葉が見当たらなかったが、今思えばこれこそが「イキ」なのである。

そもそも、紀州和歌山で100年以上の伝統を受け継ぐ竹竿は、竿師と呼ばれる職人が山に分け入って、原材料となる竹を調達することから始まる。その後、数ヶ月から1年の歳月をかけて手作業で全てを仕上げる。

したがって、同じ竿銘の同じ長さの竿でも、ふたつと同じものはない。竿を振った時のバランスを「調子」と呼ぶが、自分の釣りのスタイルと釣れる魚の大きさ、そして、この竿の調子がピシャリと一致すると、味わい深い夢のような時間を満喫することができる。

埼玉県上尾市に「鮒友」と書いて「ふゆう」と読む竹竿専門の釣り道具店がある。私は、竹竿を買う時、この店でと決めている。

こういう竿が欲しいなと相談すると、二代目主人の鮒友・憲さんが親身になって相談に乗ってくれる。カーボンの竿に比べると、竹竿は確かに高価だ。私が16歳の時にバイト代を貯めて初めて買った竹竿は、尺単価が8000円。10尺(3メートル)の竿だったので8万円だった。

当時の私には破格だったが、この竿は今なお現役だ。これまで何百匹の魚をかけたか分からない。つまり、使い方とメンテナンスさえ怠らなければ、竹竿は生涯使うことができるのだ。

いささか大仰な言い方をすれば、自分の感性と一致した道具としての竹竿は「人生の相棒」と言えるだろう。それを誰よりも理解している憲さんは、竹竿を売るために小細工をしたり、ごまかしたり、安易な安堵感を与えるような仕事はしない。

だから、見知らぬ客に「お金を出すから良い竿を売ってくれ」と言われても首を縦にふらない。客ひとりひとりの感性に合う竿しか売らないと決めているのだ。これもまた商売の「イキ」というものだろう。

今晩も私は明日の釣りの準備に余念がない。まだまだ、先達のような境地に達することはできていないが、釣れても、釣れなくても、自然とのやりとりを通じて、心と体のかけがえのない糧を得ることはできている。

もし、竹竿に出会えていなければ、同じ釣りでも、この充実した感覚を味わう機会はなかっただろう。イキとはそれを体現する人間の感性そのものなのである。

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