マーサ・ナカムラ
忘れたくない一行
きみに影をつくる、生きて在ることの静かな明るさ
岸田将幸「月明かり」より。『風の領分』(書肆 子午線)収録。
命ある限り、肉体から離れて生きることはできない。でも私の体は、冷たくて重たい枷(かせ)ではないのだ。命は暗い影を落とす物体ではなく、まるで電球のように、ただそこにあるだけで温かく光る。命の明るさに慣れて、暗くなっていた私の目を覚ましてくれた。
忘れたくない、自身の一行
強くて無欠な私を、一体誰が望んでいるのだろう。
「筑波山口のひとり相撲」より。『狸の匣』(思潮社)収録。
文月悠光
忘れたくない一行
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた
安西冬衛「春」より。『日本の現代詩101』(新書館)収録。
一行詩といえば、まず思い浮かべる作品。「てふてふ」の字面・音の柔らかさに対して、「だったんかいきょう」の音・発音時の口の楽しさ。蝶という小さなモチーフに焦点が合った後、海峡の壮大な景色が広がります。まるでカメラがズームアウトしていくように。豊かなイメージの広がりにぜひ注目してください。
忘れたくない、自身の一行
きっと、この日記のすべてが幼いと笑える日がくる。さっさとむかえにきてよ。
「日記帳のわたしへ」より。『洗礼ダイアリー』(ポプラ社)収録。
向坂くじら
忘れたくない一行
きみは毎朝毎晩死んでいいんだ
谷川俊太郎「新しい詩」より。『詩の本』(集英社)収録。
この一文に、私はこう問われている気がする——命より大切なものはあるか。昨日までの自分を手放すのは怖いけれど、それで「いいのだ」とはっとする。引用元は詩の書き方についての詩で、そんなものさえ詩にしてしまうのもすごい。
忘れたくない、自身の一行
羽化が一度きりだと誰が言った?
「変態」より。『とても小さな理解のための』(しろねこ社)収録。
姜 湖宙
忘れたくない一行
公衆電話ブースの受話器越しには無限に向かって孤独の綿畑が広がっていた
朴正大「感情の孤独」より。『朴正大詩集』(土曜美術社出版販売)収録。
第1言語の揺らぎ、日韓を行き来する生活。かつての私はどこにも根がないと感じていた。日本語で詩を書けば書くほど、韓国語やアイデンティティへの執着を強め、むしろ孤独が深まる。それでも、孤独は決して閉じられてはいけないと今の私は知っている。孤独はつながっている。この一行を読むたび、生の感触を確かめられる。
忘れたくない、自身の一行
(ねえ、おんま。今日は、むしの声が聴こえないね。)
「秋夜」より。『湖へ』(書肆ブン)収録。