クルマに選ばれる自分になりたい。松浦弥太郎とポルシェ 911SCの物語

毎日顔を合わせる家族のように、笑い合い、助け合う友達のように、時には人生の教師のように。一台のクルマと松浦さんの物語。


初出:BRUTUS No.744「Car Life」(2012年11月15日発売)

photo: Hideyoshi Takashima / text: Yataro Matsuura

「クルマを運転する」ということ。文/松浦弥太郎

朝5時に目覚める。窓の外はまだ暗い。ランニングウェアに着替えてからコップ一杯の水をゆっくりと飲む。家の外に出て、入念にストレッチをしてからランニングをスタートする。家の周り7キロを40分ペースで走り終え、汗を拭きながらストレッチをしていると太陽が昇り始める。太陽と向かい合って何度か深呼吸する。

今日の予定や、そのためのアイデアが頭の中にふわふわと思い浮かんでくる。その時のひらめきはポケットの中にあるメモ紙に書いておく。家に戻れば、絶対に忘れてしまっているからだ。ランニングの後、シャワーを浴び、朝食を取り、いそいそと出勤の準備をして出かける。8時には会社に着いて仕事を始める。

休日は、朝食を取るまでは同じであるけれど、それからが違う。まるで遠足前の子供のようにうきうきしている。

会社に着ていく服よりも上等なシャツや、ジャケット、パンツに着替え、ネクタイをしめる。仕事でしめるネクタイは、紺と白のレジメンタルと決めているけれど、休日は色が入ったレジメンタルを選ぶ。ベルトにコードヴァンを選んだから、靴もコードヴァンの革靴をシューズバッグから取り出す。リストウォッチは機械式クロノグラフをはめる。

そんなに粧(めか)し込んでどうするのか、というと「クルマを運転する」からだ。「クルマに乗る」ではなく「クルマを運転する」というところにこだわりが隠れている。

家にはATクルマが1台あり、普段の買い物や、時には通勤、ちょっとした遠出などに使っている。このATクルマは、何から何まで快適であるように施されていて、長時間運転していても疲れることもなく重宝している。スピードはあっという間に出て、車内は静かで、まるでソファに座りながら、氷の上をすべるように走ってくれる。

しかし「クルマを運転する」楽しさは皆無で、AT車について言うと、あくまでも「クルマに乗る」であり、クルマがなんでもやってくれるという印象しか湧いてこない。そして時折こんなふうにさえ思う。「乗り手を老人扱いしないでほしい」と。快適さと便利さの追求によって造られる味気ないクルマがあまりに多すぎる。

粧し込んで出かける理由は、ドイツが誇るスポーツカー、ポルシェを運転するためだ。製造年式は1978年。空冷水平対向6気筒SOHCエンジンの排気量は2.7リッター。最高出力165㎰/5800rpm。最高速度210㎞/h。モデル名は911SC。ボディの色はグランプリ・ホワイト。グランプリという言葉の響きがいい。

運転席をコクピットと呼び、アクセルを踏めば、心地よく乾いたエンジン音を軽やかに奏で、乗り手を選ぶけれども、走りたいように走り、曲がりたいように曲がり、止まりたいように止まるポルシェだ。運転するたびに、感動や発見、喜びを必ず与えてくれる、大好きなポルシェだからこそ、飛び切り粧し込んで接したい。

ドアレバーを指で引くと、カチッと機械式の音がする。ドアを開け、低い車高にセットされたシートに腰を下ろし、イグニッションキーをひねると、セルモーターがキュルキュルと回る。タイミングを図ってアクセルを軽く踏むと、エンジンが始動し、タコメーターの針が一気に跳ね上がる。そのままアイドリングさせ、エンジンを温める。

アイドリングが安定し、油圧計の針が下がるのを待つ間に、乾いたウエスでボディを軽く拭きながら塗装のコンディションをチェックする。エンジン音に耳を傾け、振動に気を配り、各部に異常がないかを確かめる。タイヤに傷や亀裂がないかも点検する。

機械式のクルマはとても正直だ。音や振動、におい、些細な違和感などに細心の注意が必要だ。運転中も五感を研ぎ澄ませて、ハンドリング、アクセルワーク、ブレーキング、ミッションの入り方、車体のきしみなどに気を配ることが大切だ。

そうやって、ポルシェという機械式クルマとの対話を重ねることで、ポルシェは、スポーツカーとしての性能をフルに発揮し、いつしかクルマと自分が一体となるという代え難い喜びを与えてくれる。

走りながら、今、ポルシェが自分をほめてくれている、と、わかる時がある。そんな時は、クルマの魅力とは、速いだけでなく、ゴージャスなだけでもないと、はっきりと実感できる。

休日のドライブコースはいくつかある。箱根まで足を延ばすこともあるし、湘南の海を眺めながら走ることもある。一番気楽に走るのは、自宅から幹線道路を軽くウォーミングアップ走行し、第三京浜の玉川入口から保土ヶ谷へ向かい、首都高速に入り、生麦、羽田、芝公園、渋谷、用賀へと走る、およそ1時間のコースだ。

ヘトヘトにならず、ポルシェならではの、風を切るような加速感や、このまま空へと飛んでいきそうな直進性。バランスを崩さないコーナリングをたっぷりと体感できる。

走り終えたら、エンジンを切り、エンジンフードを開け、ファンベルトの緩みやエンジンのにおいをチェックし、もう一度、ボディの汚れをウエスで軽く拭く。

ポルシェは自分を認めてくれるだろうか、と思うことがある。そのくらいにスポーツカーとしてのポルシェの性能は高い。その類稀な性能を、自分が引き出せているかと自問すると答えに窮する。好きになった女性に、好きだ、好きだ、と言い続けながらも、振り向いてもらえず、それでも一生懸命になっているような、まるで恋をしているような気持ちと似ている。

アクセルワーク、ハンドリング、ブレーキング、シフトチェンジなど、「わかってないなあ」「つまらないなあ」と言われているようで仕方がない。走る場所が、レース場ではなく一般公道であるから、きっと物足りないのだろうとさえ思う。

それにしても、ポルシェという「クルマを運転する」楽しさは格別である。男なら一度はポルシェを運転するべきだ、とさえ思う。初めてポルシェを運転した時、子供の頃、ゴーカートを運転した時の「うわ!」という未知の感覚を思い出した。

とはいうものの、自分自身の運動能力を高めておかないと、ポルシェを自由自在に運転することは難しい。少なくとも反射神経の良さは必要とされるだろう。そのくらいにポルシェは乗り手の感覚に過敏に反応するクルマだからだ。

休日に英国製のハリスツイード・ジャケットを着て、レジメンタル・タイをしめ、ステアリングを握る時、どんなクルマを運転したいか。迷うことなく、ATクルマではなく、機械式クルマを選ぶだろう。しかも、できればスポーツカーがいい。

そんなふうに思っていた2年前、偶然の出会いがあった。およそ30年間、我が子のように愛情を注いだポルシェを大切に乗り続けてきた夫婦との出会いだ。高齢となり体力が低下したため、ポルシェの運転が辛くなったと言い、誰かに整備を続けながらこのまま大切にしてもらいたいと思っていた、と彼らは言った。

エンジンのオーバーホールをするのに、わざわざアメリカへ、船で車体を送るくらいの熱の入れようだったから、運転しなくなったからと、業者に売り払って、まったく知らない人の手に渡るのは嫌だった。

ポルシェを運転したことがなく、クルマを自分で整備することにもまったく無智だった僕なのに、彼らはポルシェを託してくれた。理由は聞かなかった。

初めて彼らのポルシェと対面した時、「長年、所有してきた間で今が一番コンディションがいいですよ」と言って彼らは微笑んだ。そうしてポルシェは僕のところにやってきた。走行距離は23万キロを超えていた。

僕はポルシェという友達と初めて出会い、できるだけ仲良くしたいと思った。せっかく仲良く付き合うなら、何があろうとお互いさまであったり、対等でありたい。ポルシェ911SCは、そういう付き合いができるクルマだと思った。

例えば、壊れたら直すことに努め、さらに互いのつながりを深めていくような関係だ。相手を思いやり、いつも気にかけて、想像力を働かせる。こういう意識を人間関係と同じように大切にするクルマのある暮らし。今、僕がいいなと思う、クルマに対する「あたらしいスタンダード」がここにある。

クルマとしては古い類に入るだろうが、ポルシェは僕の年齢より一回り以上若い。飛び切り運動能力が高く、一緒に楽しもうなんて無茶なことかもしれない。しかし休日が来るたびに、僕らは確実に仲良くなっている。

「なかなかやるじゃん」。そんなふうにポルシェにほめてもらえたら、とても嬉しいんだ。僕は。

911SCと距離感を知る12のヒント

  1. 僕のクルマは1978年式のポルシェ「911SC」。色はグランプリ・ホワイト。乗る時は、大切な人と会う時のように、ジャケットを着て、タイをしめる。きちんと身だしなみをしてドライブに出かける。
  2. 走行距離は23万キロを超えているがまだまだ現役。2週間おきに床屋に行くのと同様、ポルシェも2週間に1度、自分で点検と整備をする。そうすれば、いつでもどこへでも、喜んで走ってくれる。
  3. スタート時とオフ時に、「今日もよろしく」「いつもありがとう」とエンジンフードをトントンと叩いて声をかける。急発進、急ブレーキ、急カーブなど、クルマが嫌がることは絶対にしない。
  4. スピードは出さず、やさしく走る。すれ違うクルマや、道沿いの家々、歩いている人などに気を使いたい。だからといってノロノロ運転もしない。要するに、行儀よく、リズムのある運転を心がける。
  5. オリジナルのコンディションをできるだけ保つ。修復はするけど、改造はしない。ポルシェは、古くてもほとんどのパーツの供給がある。一台のポルシェを生涯乗り続けるのも決して夢ではない。
  6. 風の音が聞こえるポルシェの設計に感動する。オーディオはいらない。窓を開けて、風音と一緒にエンジン音を楽しめばいい。それなりの振動も、地面の感触を正確に伝えるために大切なこと。
  7. 洗車は、雨の中を走った時の後か、よほど汚れた時だけ。普段から乗る前と後に、しっかりと拭く習慣があれば、それだけで充分。強いて言えば、見えないところほど、いつもきれいにしておきたい。
  8. パワステではないからステアリングは重めだが、走りだしたら驚くほど軽くなる。燃費はリッター10キロ。頑丈な2.7空冷フラットエンジンの安定性は抜群。踏んだだけ加速する心地よさが魅力。
  9. 9.いかにも「速い」「飛ばします」といった目のつり上がったクルマはどうも苦手。この時代のポルシェは、愛嬌があり、余計な装飾がなく、姿勢と面構えがすっきりしていて、まさにいい人。
  10. ポルシェとは一人で乗るクルマである。助手席に誰かを座らせることはほとんどない。ドライバーとクルマが一体となる運転の助手席は辛いと思うからだ。クルマと自分の対話に集中をしたい。
  11. 古いポルシェはお金がかかるとか、壊れやすいといわれているが、それは嘘。空冷911であれば、これほど実用的で丈夫なクルマはない。エンジンのオーバーホール(分解整備)が可能だからだ。
  12. 衣食住のどれもに関わるクルマという存在。靴やバッグを選ぶのと同じ感覚で自分らしくこだわりたい。乗るたびに感動するポルシェ。もちろんそれはセカンドカーとしての一台である。