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幡野広志と鈴木心。写真家2人、ヒグマを探す北海道・知床の旅へ

「ヒグマが見たい」、旅の始まりは、どちらからともなく口にした一言だった。写真家の幡野広志さんと鈴木心さんは、かねて気心の知れた仲。今までも、2人で“冒険”のような旅をしてきた。同じ場所を、同じ時間に旅しても、切り取る景色や考えることはばらばらだ。旅とはなにか、旅をするとき、私たちの心はどう動くのか。写真と日記、2人の旅の記録から、見えてくるものとは、いったいなんだろう。

初出:BRUTUS No.879心を開放する旅、本、音楽。」(2018年10月1日発売)

photo & text: Hiroshi Hatano, Shin Suzuki

9月3日/女満別(めまんべつ)〜斜里(しゃり)

優しい光(幡野広志)

女満別空港に到着した、初めて訪れた空港だ。
旅はすでに始まっている、今朝までぼくは青森にいて早朝の便で青森から羽田に戻り、女満別にきた。一緒に旅をする鈴木心は今朝まで福島にいて、おなじく早朝に羽田へ戻り、女満別にきた。2人ともちょくせつ女満別に来た方が早い気もするけど、あまりわがままを言うと、同じく一緒に旅をする編集部のカモシダが航空券の手配などで負担になる。

写真家というのはわがままだ。人から写真をコントロールされることが嫌だからだ。人の決めた予定にそったり、制限をうけたり、フォトスポットのようなところでは写真を撮りたくない、すべて写真のコントロールにつながるからだ。そんな、わがままな写真家二人の手綱を緩めたり、強く握るのが20代こうはん女子のカモシダの役目だ。

女満別から2時間ほどレンタカーを運転して、知床の遊覧ヘリコプターに乗った。ちいさなヘリで、すこし不安になるくらいペラペラだ。180Lの燃料タンクに1L 400円の燃料が入っていて、1分飛ぶと1L燃料を消費するらしい。

機体には飛行時間で決まる寿命があり、時間を切り売りするためヘリの遊覧飛行は値段が高くなるそうだ。ヘリの操縦は手のひらに棒を立ててバランスをとるような感覚に似ていると教えてくれた。知らなかったことばかりだ、知らないことを知るというのは楽しい。

ヘリの揺れと轟音を感じつつ、陽がかたむき優しい光に照らされた知床を眺めた。ぼくはこの時間帯に写真を撮るのが大好きだ。早朝のやわらかい光と夕方のやわらかい光。一日に二度、優しい光は訪れる。写真では伝わらないことを体感するためには、カメラはときとして邪魔になる。写真が撮れたら、あとは眺めるだけでいい、写真家にとってとても大切な時間だ。明日はどこへ行き、なにを体験するのだろうか。

北海道 斜里の海
夕日の淡い光に包まれる斜里の海。

遺伝子に素直でいいかなぁ(鈴木心)

川をびっしり埋めて遡上するカラフトマスは岩場を一匹ずつ順番に登っていくためにとんでもない渋滞を引き起こしていただけだった。じわじわとゆっくり登る。もうすこし効率のよい登り方があるような気がするけど、誰に教えられることもなく彼らは彼らのやり方で進んでいく。

人間と動植物の違いは、想像力?「考えること」が食物連鎖の階級で人を上部におしやり、野山を切り開いて都市を出現させてきた。僕らはその数百万年続く先達の叡智を教わり、考えてきた。しかし、今、スマホ、テレビに頼りっきりの僕らは、本当に考えている?

遺産を伝える子。生まれた時に、産卵してくれた親はもういない。誰にも教わらず、自分の経験と、遺伝子に残された情報をたよりに生きていく。そう、親も先生も彼らにとっては遺伝子の囁きなのだ。

保健体育の授業で教わった。僕らの中にも宿っている。だからもうすこし耳を傾けてみてもいいのかもしれない。自分が自分らしくあっていい。そのヒントをずうっとゴーストが囁いているに違いない。聞こえていないんじゃなくて、聞いてないんだ。と、夕日にくれる知床で僕自身の遡上もはじまった。

北海道 斜里の海
釣り人が集まる河口付近。少し離れた川の中を覗くと水面からわずかにヒレを覗かせたおびただしい数のカラフトマスがひしめき合う。

9月4日/相泊(あいどまり)〜野付(のっけ)半島〜中標津(なかしべつ)

旅の目的(幡野)

ホテルで朝食を食べそこねたので、コンビニで買ったサンドイッチをほおばりながら車を2時間ほど運転して羅臼(らうす)の漁港に向かった。昨日はヘリコプターに乗った、今日は漁船に乗る。目的はヒグマだ、この旅の目的はヒグマを見るためだ。理想は運転中にばったり遭遇というものだけど、乗ればほぼ100%の確率で見ることができる漁船でおさえておきたい。

台風の影響でのきなみ遊覧船が欠航する中、この漁船クルーズは出航した。乗客はぼくたちを含めて10人ほど。漁船だからか、台風の影響だからか非常によく揺れる。そして屋根がないのでシャワーのように波をかぶる。往復で2時間半この状況が続く。大きな一眼レフカメラに200mmか300mmぐらいの望遠レンズをつけて写真を撮っている人が漁船に数人いた。

ぼくはちいさなミラーレスカメラに55mmのレンズ、鈴木心はさらに小さいカメラに35㎜のレンズ。レンズのmm数が大きくなるほど、遠くのものが撮影できる。二人ともレンズは一本だけ、予備のカメラも予備のバッテリーもない。雑誌の企画でヒグマを目的に来た写真家が選ぶ機材ではないように思われるかもしれないけど、最大の目的は旅なのだ。旅するときにどんな機材を選ぶかという視点で、機材を選択した。波がレンズについて曇る、その曇りを拭かずに撮影することがぼくの見ている世界であり旅なのだ。

ほぼ確実に見られるはずの漁船クルーズでヒグマを見ることができなかった。下船後、ぼくのカメラも鈴木心のカメラも調子が悪い。海水をかぶりすぎた。もしもカメラが壊れたら、コンビニで写ルンですを買えばいい。ヒグマが見られないことも、カメラが調子が悪くなることも感動なのだ。

予想外が起きることは日常生活ではトラブルかもしれないけど、トラブルを楽しむことや解決することが旅では大切だ。思い出になる。きっと日常生活だってそうするべきなんだ。

北海道 野付半島
ヒグマクルーズを終え、一行は“世界の果て”ともいわれる野付半島へ。天敵のいない場所で暮らすエゾジカは泰然とした佇まいだ。

航海、後悔。(鈴木)

台風が近づく大荒れの羅臼の沖合で、今回の旅の最大の目的である知床半島に生息するヒグマを見物に、どんな天候でも絶対に帰還するという、凄腕漁師の運転するボートに乗った。

晴天とは裏腹に畝る波に揉まれ、ボートは海の上を跳ね半島の岬へ向かう。そんな状況に手も足も出ない人間をよそに、オジロワシは悠々と天空を舞い、目の前に切り立つ崖に刻まれた地層が笑っている。なんて私はちっぽけな存在なのだろう、と自分の存在に肩を落とす、か?

人間なんてそんなもんだ。道具がなきゃ、仲間がいなきゃ、なんにもできない。生きるんじゃなくって、生かされている。ついつい、そんなことすら忘れてしまって、今日のランチ写真をスマホで投稿する。

僕らは消費する生き物。生きていくのに必要なすべてを体外から摂取している。こんな大海原ではそれさえできず簡単にあっち側の扉が開く。帰港。カメラは波しぶきをうけ、ご機嫌斜め。しかし、心は爽快だった。生きるってこんな楽しいんだ、と。予定外の航海になったが、予定外に後悔はしなかった。

9月5日/硫黄山(いおうざん)〜阿寒湖

おなじ場所にたって、おなじことを想う。(幡野)

北海道の旅が最終日となった。車のラゲージルームには初日に海岸で拾った鯨らしき背骨と、立派なツノをもつエゾ鹿の頭蓋骨がある。そこにぼくのスーツケースがあるので、荷室の8割はぼくの荷物で埋まっている。カモシダは自分の荷物をなるべく鯨と鹿に触れないようにしている。

鹿の頭は昨晩、食事をご馳走になった中標津の猟師さんからいただいたものだ。年間数百頭のエゾ鹿を獲り、これまでに数十頭のヒグマを仕留めてきた30年のキャリアをもつ猟師だ。これを聞いた人は寡黙で凄みのある、白いヒゲを生やして毛皮のベストをまとった孤高の老人を想像するかもしれない。実際はその真逆だ、話がうまくスタイリッシュで温厚だ。そして交友関係も広い。

そもそも毛皮のベストをきた猟師をぼくは一度も見たことがない。狩猟に対しての哲学があり、思慮深く考えてきた人だった。命を扱う猟師だからこそ思慮深くなるのかもしれないが、実際にはそうではない人もかなりいる。本当に強い人は優しい、そう感じた。これは猟師さん自身がなんども会話のなかで発していた言葉でもあった。

夕方、阿寒湖のなかにあるちいさな島、ヤイタイ島に向かった。白龍神の祠があり、いわゆるパワースポットらしい。ぼくはパワースポットというものには疎いが、優しい光に照らされたヤイタイ島はただただ美しかった。美しい場所に身をおくと気持ちが穏やかになる、それをわかりやすい言葉にしたのがパワースポットなのだろうと疎いながらに想像している。

阿寒湖にはアイヌ文化を伝承する施設がある。ぼくは景色を眺めるときに、たくさんの時代の人も同じように、この景色を見ていたのだと想像をする。いまぼくが眺めている日の暮れる阿寒湖を、当時のアイヌの人も眺めていたのだろう。

ふと、自宅でぼくの帰りを待つ息子と妻の顔が浮かぶ。旅の終わりが近づくといつもそうだ。扱う道具や生きる時代が違えど、人間の本質というのはそう変わらない。きっとどの時代の人も、こうやってふと家族のことを思ったに違いない。

僕らはみんな生きている(鈴木)

おはよう、さぁ出発しよう。で、どこに?
旅はこんなゆるいノリで転がり始める。とりあえず車にのって、とりあえず行き先を決める。ゆるやかに車は走り、ゆるやかに時間がすぎていく。気がつくと夕暮れ、もう1日はおわる。せっかくの旅行なんだから、のんびり行こう。

写真は被写体の産物だ。撮影者の撮りたい自己があればあるほど、苦労をする。それはまるで相手に自分と同じ考えを強要する様なものである。みんなちがくて、みんないい。相手との差異を楽しむ。思い通りにいかないことを楽しむ。それが旅だろう。

お金、地位、目的地に固執した旅心地はどんなだろう。生きることは旅に似ている。どうにかなるけれど、どうでもいいわけではない。計画よりも心算がよっぽど大切なのだ。どんな生き方でも、その人らしい生き方は美しい。

生きるという旅にもいつか終わりがくる。その目的地に続く、今日の終点に向かって、僕らはみんな生きている。

北海道 阿寒湖
船長に頼み込み、「すぐ終わるならいいよ」と船上でドローンを飛ばす許可を得る。ぐんぐん進む船を空中から追いかけ撮影する。