コロナ禍の外出制限によって、リアルのイベントや集まる場は大きな変更を迫られた。展覧会もそのひとつ。VR展示やNFTの台頭など、バーチャルな世界で見るアートも急速に広がった。でも、やっぱり本物の作品をリアルな空間で見るのは格別だ。
本展は、インスタレーション、彫刻、映像、写真、絵画など、国内外のアーティスト16名による約140点の作品を紹介するボリュームたっぷりの展覧会。森美術館の広大な空間を存分に生かした大規模なインスタレーションが多いのも見どころとなっている。もちろんすべては無理なので、印象的だった作品のいくつかを紹介しようと思う。
最初の大きな部屋は、ヴォルフガング・ライプの作品。代表作のひとつ《ヘーゼルナッツの花粉》は、ライプが住むドイツ南部の村で膨大な時間と労力をかけて集めた花粉を使ったインスタレーションだ。
一見すると抽象画のようだが、これを作るためにいったいいくつの花の花粉が必要だったのかを考えると、途方に暮れてしまう。禅的な反復作業ともとれる、花粉を丁寧に集め続ける行為は、毎年同じ時期に花をつける植物の変わらない営みに重なる。
また小さな部屋の壁じゅうに蜜蝋を塗った《べつのどこかで———確かさの部屋》は、足を踏み入れた瞬間、濃厚なはちみつの香りに包まれる。匂いという、通常の美術鑑賞ではあまり使わない感覚が刺激される新鮮さがある。
社会の問題を積極的に取り上げ、丁寧なリサーチをもとに作品を制作する飯山由貴は、新作インタレーション《影のかたち:親密なパートナーシップ間で起こる力と支配について》を発表。一つの部屋を、ドメスティック・バイオレンス(DV)を考える場として構成している。
被害者/加害者、支援活動を行う団体といった複数の視点を伝える映像作品や、壁一面に掲出された様々な言葉は、一つの問題を別の立場から考えることの大切さと難しさを教えてくれる。
演劇的手法を使った映像作品を数多く発表している小泉明郎。新作映像はなんと催眠術(!)をテーマにした作品だ。映像には数人が出ていて、皆決まったフレーズを繰り返し唱えている。
彼らは皆催眠術にかかった状態にあるらしく、小声で絞り出すように発していたかと思えば、一転、泣きながら叫ぶように同じフレーズを発するなど、異様な雰囲気。ちょっと怖い感じもするが、彼らが一概に催眠のコントロール下にあるように見えないのも不思議。
むしろ自分の潜在的な欲望を解放したがっているようでもあり、人間の感情の複雑さを垣間見る思いがした。
堀尾貞治の大きな壁や空間をいっぱいに使ったインスタレーションも見ごたえがある。堀尾は、1985年から亡くなる2018年まで毎日欠かさず何かのモノに色をつける「色塗り」シリーズを制作していた。
他のシリーズも含め、彼の残した作品総数は10万点を超えるという。その物量は、生活はそのまま芸術になり得るか?という問いへの答えになっている。
そして、手のひらサイズのカード状の紙(カルト)に、中世のキリスト教絵画を思わせる素朴な絵を描き続けたロベール・クートラスもまた、昨今注目を集めている作家だ。
彼は困窮状態の中、自身が信じる作品世界を追求し続けた。一点一点異なるモチーフが描かれているカルトは作家が懸命に生きた証しのようでもあり、胸に迫るものがある。
最後の部屋には大規模なインスタレーションが展開されている。星空を描いたように見える巨大なカーテンは、金沢寿美の作品。近寄ってみると、カーテンに見えたものは実は新聞紙。金沢は新聞の印象的な言葉や画像だけを塗り残し、あとは全部鉛筆で塗りつぶしたものをカーテン状につなげている。
これだけの面積を埋める新聞には、数年単位の時間の幅があり、塗り残された言葉は、その時々の出来事を呼び起こす。言葉が星々のように点在することで、目の前に広がる世界は、時間的にも空間的にも奥行をもったものになっている。
本当に多種多様な作品が展開されている本展だが、いずれもアーティストたちがそれぞれのやり方で、「生命」と向き合っていることが印象的だった。コロナ禍以降、私たちもまた生き方そのものを再考せざるをえなくなった。アーティストが自らの心身をかけて作った作品は、私たちが未来をより豊かにしていくためのヒントをくれるはずだ。