小津ってこんな人
「ついたてが歩いているような人」と揶揄(やゆ)されていた。必ず白いピケ帽を被り、ワイシャツとチャコールグレーのパンツを身に着けて現場に現れる。酒を愛し生涯独身を貫くも子供好き。日本の誇る名匠と呼ばれる男・小津安二郎とは一体どのような人物だったのか。
容姿
基本データ
生年月日:1903年12月12日
没年月日:1963年12月12日(満60歳)
家族構成:父・寅之助/母・あさゑ/兄・新一/妹・登貴/妹・登久/弟・信三
ペンネーム:ジェームス・槇、ゼームス槇、ヂェームス・槇、燻屋鯨兵衛
好物:とんかつ(蓬萊屋)、ラーメン(海員閣)、うなぎ(野田岩)、天ぷら(おかめ)、鳥鍋(ぼたん)、酒(ダイヤ菊酒造)
贔屓の野球チーム:国鉄スワローズ
プロフィール
海産問屋〈湯浅屋〉の大番頭の父・寅之助と母・あさゑの次男として現在の江東区深川1丁目に誕生。1909年、東京市立明治小学校付属明治幼稚園入園。10年、同・明治尋常小学校入学。この頃からよく絵を描いていた。
小津家が三重・松阪に転居。1917年、米映画『平和?戦争?(シヴィリゼーション)』(トーマス・H・インス監督)を観て映画監督になることを決意。22年、宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任、1年で退任して上京する。
叔父のつてで、松竹キネマ蒲田撮影所に撮影助手として入社。途中、1年志願兵に。1926年監督部へ移籍し、27年には初監督作品『懺悔の刃』撮影開始。36年、撮影所が蒲田から大船へ移転。母と高輪に住まいを移す。
シンガポールで、軍報道映画班員として終戦を迎え、帰還。母と一緒に千葉・野田に借家を見つけて住まう。『父ありき』以来、5年の空白を経て『長屋紳士録』が封切られる。撮影中は、撮影所内の監督室に寝泊まりしていた。
1952年、大船撮影所で火災があったことをきっかけに、母を連れて鎌倉・山之内に転居。より一層、鎌倉文化人たちとの交流を深めていった。56年、蓼科に別荘「無藝荘」を借りる。1963年、悪性腫瘍のため逝去。
性格
先生の瞳の奥には優しいおじさんの眼差しが。
小津組の撮影現場は大変静かだったことで知られている。一方で、「作品から見て渋い性格だと思っている人がいるでしょうが、どっこい、喜劇調を地で行く朗らかな性格があるんだがね」*と本人も語るように、宴会やパーティでは心を許したスタッフや役者相手に酒を飲み、芸術について小咄(こばなし)風に語るような一面も。いたずら好き・子供好きで、撮影現場でも私生活でも、子供と本気でじゃれ合う姿が見られている。
趣味
幼少から芸術を好み小津組では野球をたしなんだ。
少年の頃より読書が趣味で、中学生時代には『中央公論』を購読し、映画とカメラも好む多趣味な少年だった。大船撮影所時代にも小津組に強い選手を集めて草野球のチームを作り、自らユニフォームをデザインして多くの試合に参加した。小津組は、神奈川で一、二を争う強豪チームに成長。ロケ先でも試合をしていた。相撲も好きで、贔屓にしていたのは吉葉山。ラジオで取組の中継が始まる前に、撮影も終了していた*。
小津の“鉄板”演出ルール
「小津調」と呼ばれる格調高い画作りに欠かせない、小津ならではの演出の数々。しかし、よく見てみると「何か変!」とツッコみたくなることも。むろん、そんな一風変わった演出にも小津なりの“たくらみ”がある。4つの“鉄板”演出を通して、考察してみよう。
数字に見る小津
かつての偉大な映画監督たちは、「記録」という名の数字を映画史に刻み込んできた。しかし、たとえ映画史には残らなくとも、人々の「記憶」に残るユニークな数字もたくさん存在する。小津にまつわる様々な数字から、滲み出る“小津らしさ”を検証する。
小津のともだち
映画以外にも芸術全般への造詣が深く、各分野のプロフェッショナルと積極的に交流を深めていた小津安二郎。特に、晩年鎌倉に転居してからは、里見弴を中心に白樺派の文学者や画家たちと食事会を開催したり旅行するなど、その交遊の輪を広げていったようだ。